社会人となって一週間経って思ったことメモ

ぴったり一週間じゃないんだけれども、なんだか今日は久々に早く帰ることができて、夕飯食べたり音楽聴けたり本を読めたりなかなか充実していたのでその勢いで。

この春から新社会人としてただいま絶賛研修中である。そんなのがいきなり「社会人になって思ったこと」なんて言おうものなら各方面から「まだそんなの社会人じゃない」なんて声が飛んでくるのだろう。でも別にいいんだ、言い方が見つからんかったのもそうだし、たぶん生きてきて今が一番、そして初めて大勢の社会人に囲まれて生活している。そして思ったことが幾つかある。それだけでいい。

以降適当に順を追ってメモしていく。



1.勝ちたいのならルールを知ることだ、そして勝つこととは、ルールを創ることだ

”「勝ちたいと思うのなら、まずはルールをよく知ることだ」。

ルール?そんなもの、もちろん知っているよ。と皆はいうはず。

勝負事にはもれなくルールがついてくる。スポーツでもゲームでも、それはおなじこと。そしてそこに参加する人はそのほとんどがまずルールに目を通す。ルールを把握しないと公平性が保証されず、そこに参加できないからだ。なので人々は、ルールに目を通す。目を通して把握するために。

一体何割の参加者がルールを研究するだろう。

王道で勝負をすると、そこで結果を分けるのは純粋なリソース量の多寡になる。正統的王道的な資本主義ルールのもとでは、時間、お金、体力などをより多く持ったものが勝つ。このルールは覆らない。

だが、世の中はそうでないから面白い。

抜け道近道邪道でもなんでも目的を達成させれば良いのである。もちろん目的の達成のみを目的に設定してしまうとゲームが破綻する。真面目にコツコツ努力をして一生勝てない「運命」とかいうものと戦わなくて良いのである。人間のアタマは何のために他の動物より容量が大きいのだろうか?

だからここでルールをいかに知っているか、理解しているかが重要になってくる。

ルールとは、「守るために知る」のではなく、「破らないために知る」のである。

ルールを守ることを目的としたルールは、それ自体が奴隷となったあなたを縛りつける鎖となるが

目的達成を目的として歩み始めたとき、それはゲームを攻略する良きアドバイザーとなり、みちしるべとなる。”

なんてことを、先日自分のTumblrに吐き出した。
そしてどうやら、この「ルールを知る」ということで得られる勝利というのは「ルールを創る」ことなんじゃないかと思えてきた。
どのゲームもやはり一番強いのはルールの支配者だ。会社で動いていると本当にいくつもの「こうだったらもっといいのに」にブチあたる。
誰がそうしてそうなったのかはわからないが、というよりそこにいる人々が無意識的に、流動的に「そう」したのだろうけど
とにかくそういう「なんかCOOLじゃない」ことが非常に多い。うちで言えばたとえば会社の管理ソフトが古かったり、書類や決済の申請手順がやたらこねくりまわされていたり、新規事業がやたらビジネス偏りな判断をくだされたり(もちろん不満ではない)。
んでもそういうルールを管理できたら、それはたぶんとてもストレスフリーでクリエイティブでわくわくすることだろう。
しかもお金ももらえる。「その他大勢」がもらえないような額だ。
そして同時にとてもたくさんの知識と、配慮と、責任がついてきて権限を必要とする。
だからこそ、ルールを創ることというのは、同時にすごくなっていくことで、えらくなっていくことなのかもしれない。

まだわからない。入り口に立っているだけなので。それでも人事部から社内メールで回ってくる「昇格」は、見ていてやっぱり羨ましい。
はやくそこまでいきたい。そのためにまずは頑張るのだ、とにかく勝ち方を、つまりルールを勉強する。




2.ショートカットキーをひた覚えろ

ショートカットキーってあるじゃないですか、知らないなんて言ってられないんだ、こいつらの存在が。というのも知っているのと知らないのではお話にならないほどの差が生じる。
エクセルで扱う情報量の多さと言ったら、大学生時代のそれとの比較どころじゃない。しかも同時にそのデータの重要性たるや。一歩間違えればあっという間に翌朝の新聞の一面を飾れるレベルだ。そういうのを扱うことになる。

「そんなに重要なら手でやればいい」って、ところが皮肉なことに正確性においてはPCの方が信用できる、と言われる時代になってしまった。
「エクセルにある10000件のデータ、これから必要な要素を抽出してグラフ化しといて。」って頼まれて、ぼくらはどうすればいいんだろうか。
ある人は5分で作る。ある人は一日かけて作る。
タチが悪いことに、こういう作業は製作時間が短い(=効率の良い)ほうが正確で的確で、ぶっきらぼうに言えば価値のあるものができあがる。

「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧窮する」っていう法則はこういう作業にも当てはまるみたいだ。

ぼくらは皆で競走をしている。ただ、今までのような運動会の徒競走ではない。みんなが靴を履いて、地面を蹴って、走っていくのではない。
ある者は自分の足で、ある者は自転車で、ある者は飛行機で、またある者は魔法のようなテレポートで、ゴールを目指す。

変わっていないのは「ゴールに早く着いた者が勝者となる」なんていうルールだけ。
「何でそのゴールを目指すか」を決めるところから勝負は始まっていて、そしておそらくその時点で結果はほとんど決まっている。



出世したいなら「効率化」せよ。つまらないことに時間をなるべく割くな。おもしろいことをしろ。
どんどん省け、省けるものの価値なんて、たかが知れている。




3.仕事と作業をしっかり分けて考えろ

いまやっている行為は「仕事」だろうか、それとも「作業」だろうか。
この二つはそれぞれ分けて考えるべきである。

作業というのは誰がやっても結果が変わらないこと。

仕事というのはその人がやることに意味があること。


もし前者に取り組むのであれば、そのプロセスはなるべく効率化して省いたほうがいい。(もちろん正確であることが大前提で)その空いた時間をいかに生産できるかに意味がある。

「自分のためにならないことにいかに時間を割かないか」というのは、「自分のためになることにいかに時間を割くか」と同様に重要。


また「作業を仕事化」することもできる。
それはブランディングと巷で呼ばれているものに近い。


なんでもかんでも仕事化していくと、それはいつしかブランドをまとう。
「なんでもないことなのに、この人がやるとなんか違う」なんて言われる雑用のスペシャリストになればいい。
世界一の雑用には、おそらく雑用なんか回ってこない。


作業はなるべく早めにコンパクトに終わらせて、そして仕事にとりかかろう。評価されるのは作業ではなくて仕事の部分だ。




4.社内の環境はベストではない

社会人になって一番困っているのは「早起きができない」とか「時間がなくて辛い」なんてことではなくて、「満員電車がキツイ」とかでもなくて

仕事の環境が窮屈である、ということだ。別に人間関係がどうのこうのではない。
情報管理のハナシだ。

もちろん企業としてこんなことにいちいち文句を言っていても仕方が無いのだけれど、学生時代のPCの使い方から比べるといくぶん苦しい・非効率的な使い方になってきた。
というのを自宅にある私用のPCに触れていると痛感する。
もちろん会社のPCはできることができればいいし、さらにやっちゃいけないことをされると大変大変なので、そのへんにセキュリティが敷いてあるのは至極当然なことなのだけれど。
それにしても様々な機能制限がかかっている。

そしてそれはなにもPCだけではない。
自分にもいくつかの機能制限を課されることになる。それは言い訳となって現れるのでおもしろい。

「こうでなければ」「あれができれば」「いつもは違うのに」なんてことを気がつけば口に出しそうになっている。
それを出してしまったら終わりなのだけれども。

ベストエフォートで仕事力を語ってはいけない。良くも悪くも仕事はトーナメント戦ではなくリーグ戦なので、最高得点ではなく勝率で評価されることもある。

いつしか自分のベストエフォートは理想化され、よりますます一層遠く彼方霧の中へ消えていく。
そしてやがて神格化されたベストな自分を胸に秘めて、祈るようになる。その祈りがどれほど非生産的かは想像に難くない。



そんなことより働けよ。




5.群れることは自分を平均化することと心得よ

やっぱり集団はラクだ。早く帰れない雰囲気、なんていうものは実際にある。とくに新入社員は研修内容によっては定時近くなると本格的にやることがなくなってきたりする。でも周りの先輩上司の方々はいつもどおりせわしく働いていらっしゃる。そりゃもう早くなんて帰りにくいですよ。帰るけど。

同期も同じく。みんな楽しいしいいやつばかりであろう。自分の同期を自慢できることは大切だ。彼らとは今後長い付き合いになるような気がしてならない(たとえ転職があったとしても)。

仲のいい同士で固まるのは楽しい。とても居心地が良い。それはなんでかというと、共感の嵐、価値観・ツボがぴったしで、何を言っても「イイネ」だし「wwwwww」が待っていて、自分のキャラクターと座席が用意されているから。様々なダメージの想定はいらない、生存本能が昼寝できる。それはもう理想空間。外からの攻撃からは守られて、内的コンテンツは日々増えていく。しかもそれは自分の価値観に最適化されている。


まさか、こんな虫のいい話がノーコスト・ノーリスクであるだろうか。否、もちろん用意されている。
それは「自分の平均化」だ。集団があなたに最適化されていると感じているとき、ほぼすべてのケースであなたが集団に最適化されている。
その蜜を吸う者が集団内にいるかも知れないし、もしあなたがそうならそれは非常に上手いことだ。ただ、その蜜は時間と共に垂れ流されている場合もある。
消費ですらない、無駄になっているだけ。

個々人にはいろいろな「差異」がある。上手い人がいれば下手な人が出てくるし、早い人がいれば遅い人もいる。
近しい属性の集団というのはその性質上、「空中分解」を恐れる。つまるところ大が小を兼ねていて、小が大を兼ねていなかったら大は小に合わせなければならない。
遅い早いも同じだ。空中分解のない方にゆらゆらと不恰好に蠢いていく。そして空中分解のない方というのはたいてい「下方」であることが多い。低いところのほうが、ものの在り方は安定する。
自分が(その集団内で)上位の人間であれば集団内の下限に合わせることでもたつき成長は鈍るし、中間層であれば危機感のない平凡に埋没するし、一番遅い人間であれば最悪なことに自分以外の成員の足をもれなく引っ張ることになる。

もちろん群れることすべてが悪いのではない。自分を平均に近づけることは大切なことだし、いつまでもエントリーせず枠の外側では意味がない。
それでも、方法としての平均化ならともかく、それが目的化されてしまうときっと「なにかおもしろくない」生活が待っていることになる。





6.寝る前に明日の朝することをひとつしてから布団に入れ


これはほとんど自分に言いたいことなんだけれども。

「前倒し感」というのは実に大切なことなんだと痛感している。周りの人よりどれだけ前倒せるか、なんてことが意外と重要になってくる。
というのも、仕事は余裕のある人に集まりやすい(反対に作業は時間のない人に集まりやすく感じる)。

少なくとも周りより早くステップアップしたいのなら周りより多くの経験値が必要で、周りより余分な仕事・成果を出さなければならない。
ということはそのまま周りの人間より時間的・精神的に余裕がなければならない。
別に寝る前じゃなくてもいいんだけど、これが一番わかり易い。
明日のタスク・スケジュールをチェックしておく、明日着ていく服を用意しておく、明日の朝ごはんを下ごしらえしておく、洗濯物をたたんでおく。なんでもいい。
この前倒しが次の日にどんな素敵な経験に化けるかもしれない。そう考えればそこまでキツくないように思える(もちろんキツくない範囲内で)。


社会人と学生が大きく違う点のひとつに「まとまった暇」の存在がある。説明するまでもなく、社会人には「まとまった暇」がほとんどない。あるかもしれないけど間違いなく学生のそれに比べると少ない。
でもそこまで時間がないかというと、実は一日のなかに細切れみたいにぽつりぽつりとあったりする。これを上手く使っていかないといけないんだけれども、そう考えるとやらねばならんことも細切れにする必要がある。そしてその細切れの扱い方はどうも「これくらいなら後ででもできるだろ」といった”将来の自分にブン投げ型”になりがち。これはあまりよくない。今の日本の財政と変わらん。いつ回収すんねん、なんや死ぬんか、みたいな。
前倒し、前倒しに次ぐ前倒しで行きましょう。消化は早いほうがいいです。何につけても。



とまぁそんな感じで。
以上。
朝、ちょろっと編集。

4年間の部活動を通して学べたほんの5つのこと。


先日は所属する大学の部活で「追いコン」なるものがありました。この追いコン、なんと「四年生を追い出すコンパ」であって、そのとき出席していた四年生はなんと自分一人であり、まだまだ可愛い一年生、小憎たらしくなってきた二年生、就活に追われどこか大人びてきた三年生、そしてOBの方々など、下から上まで様々な方に出席していただいた。そしてそれは同時に自分一人がこの大衆どもの攻撃対象となったことを意味している。畜生。どうもありがとうございました。

さて、現役の選手として練習に参加できるのももうあと幾日。先日の挨拶は明らかに酔っていたし、なんせいきなりというものもあってまったく意味不明なことを言っていたと思う。割とキツかったし。それではあんまりなのでこの前言いたかった(だろう)ことをちょっとここにまとめてみる。





1.常にいまその瞬間を全員で楽しめ。

「これが我が部のモットーである。」

なんて教わったのももう四年も前になるのか、時間の流れというのは本当にはやい。

この集団にはいろんな活動がある。練習はもちろん、年に二回の大学対抗戦、またそれ以外の試合や合宿、飲み会もある、練習後にみんなでファミレスに行ってダラダラすることもある。
プライベートで遊びに行ったりもする。うん、いろんな活動がある。
そして本当にいまの現役は結束力が強いと思う。素晴らしい。しかしそれが両手離しで喜べることかというと、当然リスクもある。気を付けねばならないこともある。組織の結束が強固になる、成員同士の関係性の強化の裏側に排他性の強化を材料にしているケースが多い。前者は非常に生産的でいい状態だと思う。後者は組織論的に見れば危険の予兆でもある。それも肌では感じられるが目には見えず、無意識的にその流れに加担しているケースも多く非常に厄介。その偽りの楽しさは亀裂を生む。今ではない、今すぐにではない。でもいつかきっと何かがあると思えて仕方がない。それぞれの分子間の結び付きが強けれべ強いほど、組織に生じる亀裂は大きく再生が難しい。集団で加速度的に盛り上がっているとき、なんとなく違和感を感じたら気にしてみて欲しい。
いろんな活動がある中で、「いまその環境を全員で楽しめているか?」という問いを自らに投げかけて見られるといい。誰かが楽しめていないのなら、そこに手を伸ばせるような集まりであればいい。大学生活四年間のなかで、この部での活動をとおして、そういう人になれたら素敵だなと思います。
決して短くはない大学生活の、きっと多くの部分を共有する仲間だから、誰かを消費してすり減らして結束するのではなく、おもしろいこと、楽しいことを創造して結束して欲しいなと。

誰かが楽しくないのは、たぶんなんだかんだ皆楽しくない。

「誰かひとりでも楽しくないやつがいたら、それはウチとしては面白くない。だから面白くあるのは難しいんだ、もちろん難しい分楽しいんだけど。」
なんてことをビールを飲みながら言う人達がいたんだから、無理じゃないはず。




2.学べ。

「学び」という日本語の語源は「真似び(まねび)」であるという。つまり学ぶこととは真似ること。たとえばサービスが上手くいかない、レシーブのやり方がわからない、試合に勝てない、いろんな学びの必要性があることは、各々が身をもって知っているはず。ではその解決のためにどんなことができるだろうか。まず結果を持つものごとには、それ相応の原因がある。原因と結果、当たり前すぎて忘れがちだけど、これらは対になっている。自分の外に目を向ければ、実は答えはあの練習場に満ちていたりする。自分ができなくても、その技術を実行している人がいる。「偶然だろうが奇跡だろうが一回でもできれば地球上の物理法則において可能だということ、その技術は”可能”だ。あとはやり方次第、練習で精度を上げていく」なんてことをかの水谷くんも言っていた。
なにも練習場や台の上にしか答えがないというわけでもない。思わぬヒントというものはどこに転がっていてもおかしくない。孫子の兵法を読むもよし、宮本武蔵の武士道から知るもよし、スティージョブズでもゲイツでも孫正義でもホリエモンでも、なんでもいい。それが実戦で威力を発揮さえすれば。
それに気付けるか、どうか。
上手くいったこと、失敗したこと、楽しかったこと、悔しかったこと、哀しかったこと、勝ったこと、負けたこと。世の中にはいろんな原因と結果、事実と解釈があってそれぞれ紐解き仕組みを知ること、これが大事。混同してしまうといろいろと勘違いや間違いを生む。
それぞれはたしかに結びついている、でもちゃんと個々の事象をしっかり独立させて考えよう。

あのコースにドライブを打つとどうやら効く。
このサービスでラリーを開始すると、自分が優位に立てる気がする。
今までレシーブはツッツキが基本形と考えていたがどうやら違うらしい。

「なぜそうなったのか→では、どうすべきか/どうすべきではないか。」という意識を常に持ち続けていきたい。

これはコミュニケーションにおいても同じ。

こう伝えると上手く伝わる。
こういうことを言われて嫌だった。
この指示では人間が上手く動かない。
こう言うと面白さが伝わるみたいだ。

学生の構成するコミュニティにおいて、コミュニケーションに齟齬が発生するだいたいの理由は、相手への「なぜ」の説明が不足していて、相手が自分たちの文脈を理解している/察知することができるだろう、という発信者側の傲慢な論理的飛躍である場合が多い。そのネタは誰に通用して、通用しない場合はどのように伝えるべきなのか、そこを解決すれば(あとは受信者の価値基準だけど)うまくいく。


気にすべきは"what"よりも”how"や"why"であったりする。
手にした手札はもう決まっている、問題はそれをいかに使うかだ。

ちょっとでも「?」ってなったのなら、すかさず「なんでだろう」「どうすればいいんだろう」を発動できるといい。
これは今後の人生も絶対役に立つと思うんだ。




3.記録せよ。

上で書いたように日々意識を続けて気づき、学んでいったところで毎日同じコースをたどっているのでは正直に言って時間の無駄。和泉キャンパスに通っているいまはわからなくても学生時代というものは有限で、それは多かれ少なかれいまこの瞬間も一分一秒と終わりへ近づいている。あと一ヶ月もない状態で気がついてもそれは切ないだけで何ももたらさない。
そんななか、毎度毎度同じ事に気づき感動していては到達地点がどんどん手前になってしまうし、成長の、自分の飛距離が伸びない。なので気がついたこと、学んだことは適宜記録すべきである。(忘れなければしなくてよいのだけれど、そういう人を自分は今まで見たことがない。)
わかりやすく言えばノートでもつけるといい。日記とはちょっと違うけど、「今日はどんな練習をした」、「誰と試合してどうなった」「それは自分的にはどうだった」、「よくできたところ」、「今後課題にしていくところ」、贅沢を言えば「課題を克服するにはこうすれば良い」ところまで書けると素晴らしい。とにかく日々の活動を目に見える形に、自分で手を動かして記録しているだけで成長のスピードはまるで違う。地元の中高生に教えるとき、自分はまずノートを作れと言うし、なんだかんだ中学で恩師に教わって以来、自分もずっとつけてきた。
ノートをつけ始めると、何でもない練習が「とある一日」以上の意味合いを持つようになる。そして前回出来なかったことをするために、そして前回より良くなるために練習を行う。そうしたら成長ははやい。
”今を生きろ”なんて言われているけど、今を充実して生きるには過去と未来への意識は欠かせない。過去から積み上げてきたから今があり、今この瞬間は明日来週来月来年の自分を作る大切な要素になる。わかりやすく言ってしまえば、次回の大学対抗戦の自分が何をしているか、どんなことをしているかは、すでに今の自分がその命運を握っている。次回の大学対抗戦の自分が何をしていたくて、どのようなことをしたいのか、そこに貪欲でありたい。

「前回の自分よりももっと強く、上手く。」を意識し続けるには、なかなかいい方法だと思う。
目の前にいる相手より、過去の自分に負けてしまう方が何よりも悔しかったりする。

時間は有限だ。だけどたくさんある。
無駄にしないためにはまず、記録せよ。




4.あるものは使え。

単調な練習や練習後のファミレスなどだけでなく、時々我が部の活動には非日常が用意されていたりする。いわゆるイベントごと。数年前、飲み会皆勤賞を狙っていた自分は召集がかかる度に”普段あまり話したことのない人と話せる”と考えてわくわくしていた。珍しい人が練習に参加したら自ら開催したりもした。今と違ってアグレッシブでした。そんなこんなで東都七大学連盟に関われたりもした。
いざ始まれば飲み会には年功序列で上座だの下座だの、めんどくさい座り方やビールの注ぎ方、口の利き方につまみの食べ方、興味も関心も沸かない先輩の説法などもうクソめんどくさいルールだらけで「同期と一緒にいたほうがラク」だと思うかもしれない。正しい。たぶんソッチのほうがラクだ。でも勿体無い。
基本的に後輩から先輩へというベクトルになるけれど、相手のことは多く知っておいたほうがいいし、実は役に立つ人脈や特技、趣味を持つひともいる。そんな打算抜きで話していて楽しい人もいる。少なくとも「普段あまり話したことがない」という人と話すだけで、なにかしら数分前の自分をアップデートできる。これは予想以上に大きい。なんせ自分が普段あまり話したことがないということは、相手も自分と普段あまり話したことがないということだ。相手に与える影響も大きいだろうし、それが何がしかの化学反応を起こさないなんて、誰にも否定出来ない。
自分と主義思考が似通った人と話すことはとても大切だが、それと等しく自分とズレている人と話すことにも意味があると思う。
周りにはいろんな人がいる。学部もそれぞれ違う、趣味もそれぞれ違う、住んでいるところ、バイト先、戦型、自分は自分にとってだいたいちっぽけで、だからこそ外から輸入してみる。
飲み会において声をかけるのに理由なんていらないし、禁則事項もない(犯罪にならない範囲内で)。時間もある、金も(どうせライフラインが止まらない程度には)ある、確実に二次会もある、あるものは使え。
そしていつか立派に使われる側になろう。なってみてわかったのだけど、割と使われる側も楽しかったりする。頼られるひとになるには頼りになる人から学ぶのが最も早い。
そうやって先輩から後輩へ、タテにイイモノを受け継いでいける団体になるといいな。自分の頃はそうだったのだけど、これからもそうであって欲しい。

いちばん哀しいのは四年間かけて”使えない集団”になってしまうことだ。




5.挑戦しろ。

練習がぐんぐん上手くなるひとがいる。人間には熟練という性質があって、これは「同じ事を繰り返している時間が長くなるにつれて、その作業の精度や効率が向上していくこと」であるのだけれど、ではその熟練が自己の目的となっているひとはどれだけいるだろう。競技として楽しんでいる限り、卓球には反対側に相手がいて、そいつより一球でも多く返球することで点数を稼ぎ、試合に勝つことが目的としては一般的であったりする。

目的は何だろう、それを考える。そしてその目的達成のためにはどんな要素が必要だろうかも考える。考えるだけでなく紙か何かに書くことをおすすめする。人間は頭だけでは動けないので(タウンワークを読んでバイトした気になる、みたいに動いた気にはよくなれるんだけど)。

考え方。
ふと、漠然と、漫然と、なんとなくぼんやりと浮かぶ「〜したい/〜なりたい」をひとつキャッチする。それに「なぜ?」を掛ける。「なぜ」を掛けて「〜から」を弾き出す。そしたらそれにまた「なぜ?」を掛ける。どんどんやってく、いつか「なぜ?」に対して有効な回答が出せなくなる、それが「目的」だったりする。
目的はだいたい天高く聳える。今の自分じゃほとんど手の届かない場所にあるけど、いまはそっとして置いておく。
次にすることはその目的に「そのためには?」を掛けていく。どんどん掛けていく。これはたぶんキリがない。でもどんどん具体性を帯びてくる、なんだかできそうな気がしてくる。それが「目標」である。

目標に向かって挑戦する。たぶん上手くはいかない。というのもそもそも挑戦する対象というのはできないことのほうが多いからだ。普通、できることには「挑戦」という日本語は使わない。んでまぁ、挑戦はたぶん上手くはいかない。失敗する、できない。それでもやる。
もちろん挑戦しながら考えることは大切。だけど挑戦しようか考えるのはあまり有効ではない。どちらかというと挑戦する前に考え始めると、「挑戦しない方法」を考えがちであるからだ。
それじゃ昨日までとなんら変わらない。新しい技術、戦術、思想や目的は見つからない。多くの教科書が「理論と実践」なんてタイトルという一番大事なところで謳っているように、理論はもちろん実践だって欠かせないのである。
最初は皆出来なかった、あのイチローですら最初はハイハイしてたわけ。
すごいひとってみんなその中でどうやったらできるかを考え続けてきた。その仲間入りをすることは、何においても重要で、そのための期間なんじゃないかというくらい学生生活と相性が良い。
昨日出来なかったことに今日挑戦して明日できるようになる、それが成長とか言うんじゃなかろーか。スポーツでも、それ以外でも。

苦労は買ってでもすべき、なんて言わないけど、少なくとも「機会は買うに値する」と思えて仕方がなかった4年間でした。





目の前で後輩たちがESを書いている、そんな昼下がり、明大前のガストより。

以上。

神様のくしゃみを受けた街-3.11 気仙沼の夜-

リンク:【ただの日記】3.11っていう日、気仙沼の夜と自分。



今朝は午前中に友人宅を出発、仙台をあとにして気仙沼を目指すことを目標にしていました。
とりあえず仙台だし牛タン食うべ牛タン、と思いつつもそんな朝からほとんど焼肉なモノを売っているところなどなく、残念ながら偶然目に入ったたいやき(具たくさんカレー)が気になり朝ごはんとした。これがまためちゃくちゃうまかったので今度は是非牛タンをいれて欲しいもんだ。

とりあえず東北では仙台から様々なところへ行けるみたいなので、近場にある松島を選択。これは仙石線という電車で30分程度、松島海岸という駅で降車。まぁ適度に島を見て海を見て、韓国から来た海外旅行客の集団と仲良くなったり地元のガキんちょに絡まれたりしながら東北本線松島駅を徒歩で目指す。
そこからは一ノ関駅岩手県)に突入。この時、気仙沼いきの電車のなかで例の14時46分を迎える。
そこからは非常に長い乗車時間を経て16時半頃、気仙沼駅に到着する。


気仙沼は個人的に思い入れの深い地域だ。それは小さい頃に行ったことがあるとか、好きな場所だったからというわけではない。
ただ去年の今頃、地震の影響で電車が使えなくなり帰宅難民化した自分が一泊する大学のスクリーンで見たNHKのあの光景、火災と津波に飲まれていく気仙沼をみて初めて「未曽有の大災害」の意味を実感した。あのときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。それこそ世界が滅びてもおかしくないようにすら感じられた。


そしてあれから一年。ぼくはその街に来た。

駅を降りてまず目に入ったのはどこまでも透き通るような青い空だった。

しばらく駅前をふらふらしていると、どうもどうにもならないことに気がつく。どこまで行っても道。そんなとき、大学の友人が偶然気仙沼に来ているというので合流した。そのまま彼のお世話になっているというホテル望洋さんに泊めていただけることに。あとで聞いたハナシ、何をするにも駅前からでは徒歩でどうにもならないらしかったので、彼やホテル望洋さんに出会わなければ雪の降る東北は気仙沼で野宿し凍死するところだった。


ホテル望洋さんは、宿泊客への対応をしている一方で気仙沼へボランティアでやってきた人々や復興支援チームの活動拠点という存在でもあった。そこで社長や女将をはじめたくさんの人に出会った。地元気仙沼のひと、遠くから来たひと、自分と同じように大学生も多かった。あの震災からちょうど一年というこの日にも、急遽泊まることになった自分をその夜から食事に招いてくれ、その後は楽しい宴まで参加させてくれた。ほんとうにありがたいことだ。実はこの日NHKの番組がここホテル望洋からの生中継だったらしく、同じ食卓に渡辺謙さんがいた。やっぱりめちゃくちゃかっこいいし、気さくな方だった。そしてなによりオーラが凄かった。番組のほうは上手くいったらしい。さすがの生中継、スタッフの緊張感や一体感が痛いほどに伝わってきた。すごかった。チームワークだった。

食後はしばらく自由時間。その後はメンバーの中にカクテルをシャカシャカ作れるひとがいたので彼が部屋の片隅にバーを開き、みんなで集まっていろんな話をした。結局夜中の二時くらいまで騒いでいたのだろうか。部屋を軽く片付けて、寝ることとした。



この日大きく感じたのはテレビに限らず、日本の中心部(非被災地域?)と、被災地の意識のズレ。応援だとか、がんばろうとか、あきらめないとか、そんなのは当たり前すぎて、こっちではあまり見聞きしない。ほぼすべての人達のなかにある共通意識だから、そんなに仰々しく連呼されるとかえって陳腐になる。

そして被災地の方々におそらくもっとも失礼なのが「かわいそう」という言葉だろう。
正直に言うと、被災地は楽しい。道行く人々はみなエネルギーに満ちていて、「やってやるぞ」という意識を持ち何かに打ち込んでいる。
それを非被災地の人が見て「かわいそう」と言うのはちょっと違和感がある。もちろん大変なことがあった。住み慣れた家は消え、人も消え、モノも流され押し潰され消えていった。だがしかし、気仙沼の、彼らの「未来」もそうかといえば、ぼくはそうは思えなかった。

「目の前に、なんとかしたい今がある」。そのエネルギーで今日もみんな楽しそうに復興作業に打ち込む。みんなが、ひとりひとりが、できることをやる。少なくとも、ぼくがいた東京ではなかなか見つけられなかった強い前進の感覚が今日も渦巻いている。誤解を恐れず言えば、むしろ「かわいそう」なのはありふれた日常の中で「いきる」ことすらただの作業となった無感覚的に埋没している平穏のなかのひとたちなのかもしれない。

昨夜の宴の中、ホテル望洋の社長さんが笑いながら言っていた。
気仙沼はね、神様のくしゃみを受けた街なんだ。別に誰が悪いとかではなく、ちょっと神様がくしゃみをしたんだ。俺らは大変だけど、でもちゃんと頑張ってる。それをさ、ちょっと”どんな感じかな?”みたいな感じでいろんな人に知ってもらえればいいんだ。」

また別のひとはみんなで集まって食べる夕飯中に「今日はなんだか正月みてぇだな」なんて笑いながら言っていた。

そうか、ちょうど一年。ぐるっと回ってきたんだ。たしかにあの震災で受けた衝撃は甚大だった。精神的なダメージもある。
だからこそ、「あの日」は被災地の方々の中で、より一層「あの日」になっている。それから一年。いろんな辛いことがあって、でも頑張って、少しずつではあるが明るいこと、楽しいことも増えてきて、そして一年が経った。「この調子で”頑張ろう”。」ここまできて初めて口にできることば。

2012年3月11日、この日一番元気だったのは被災地の人々だったのかもしれない。とさえ思えてくる。


もちろん大変なことがあった。住み慣れた家は消え、人も消え、モノも流され押し潰され消えていった。だけれども、気仙沼の、そこに住む人たちの「未来」もそうかといえば、ぼくはそうは思えなかったのだ。


未来を照らすのは街の街灯でも、ビルの放つ照明でもネオンでも、走り交う自動車のライトでもなかった。
そこに住んでるひとたちの持つ、たくさんの明るさだった。
なんだかいつのまにか忘れていた、とても大切なことを思い出したような気がした。



負けねぇぞ、気仙沼。絶対に、また来ます。

「デジタルネイティブの時代」なんて言ってた時代は続くよいつまでも。

デジタルネイティブの時代』東洋経済新報社 木下晃伸 2009・5・14

デジタルネイティブの時代

デジタルネイティブの時代


ブックオフでチラッと目に入った、買ってみた。そして読んでみた。どうやらデジタルネイティブなるものがついに社会に進出し、ノンネイティブである筆者はじめ昭和生まれの人々は不安になっているらしい。この本はそういったノンネイティブな人たち向けの書籍みたいだった。

筆者は冒頭からデジタルネイティブとそうでない者を平成生まれか昭和生まれかという基準で分けている。もちろん定義は広く知られている「物心がついた時にインターネットが身の回りにあったか否か」というものなのだけれど。個人的にはぶっちゃけ情報環境なんて家庭次第でもあるし、自分もギリギリ昭和生まれ世代なのだが実家(群馬県の片田舎)の方を見て平成生まれの知り合いが皆デジタルネイティブかといえばこれにはNOと言わざるを得ない。この本が書かれた2009年ではもちろん、アップルのiPhoneGoogleAndroid搭載機種が都心部で急増してきた現在ですらスマートフォンの普及率が高いとは言えない。みんなまだ「ぱかぱかするもしもし」を愛用中である。
これにはCGMによるコンテンツ不足や情報サービス環境の未成熟といった側面がちゃんとあって、「群馬が未だに狩猟採集生活を営んでいて、画面を衝撃から守るため」とかいうハナシではない。

とにかくインターネットに疎い層というのは平成生まれにも存在する。そんな気がする。もちろんゼロ年代生まれ、みたいに情報社会の成熟が進んだ今ではまた事情も変わってくると思うけれど。
そして、昨今実際に言われている「デジタルネイティブ」とは、割と物心がついた頃からパソコンやインターネットに触れて育ち現在もスマホやらタブレットやらに指を滑らせている自分とも異なったメディア感覚を持っているんじゃないかと最近思えるのである。



とにかく平成生まれをデジタルネイティブとする分類法にちょろっと疑念を持ちながらも読み進めていく。

2006年、1984年に昭和生まれの人口が1億人を超えて以来、初めて「昭和生まれ人口が一億人を割る」。この年は奇しくもジョージ=オーウェルが情報統制が敷かれ、個人が消滅する中央集権的未来を予想した1984年であり、同時にそれをアップルコンピュータ社がMACKINTOSHで打ち破ったあの1984年である。
そしてちょうど昨年の2011年には、「平成生まれの新社会人(大卒者)がデビューする」年であった。
なぜ筆者がここまで昭和世代と平成世代に戦を引きたがるのかはわからないけど、そういう背景がここ数年にちょうどあった。


「革命とは時間の短縮であり、空間の超越である」なんてことも言いながら、インターネットの出現について「コミュニケーションの革命」であるとする。
たしかにインターネットはコミュニケーションメディアとして時間的空間的制約から大きく解放されている。殊にモバイルインターネットといわれている領域であれば、デバイスの携帯性もあって「いつでも・どこでも・だれとでも」を体現している。
しかしながらこの空間的時間的制約からの解放は同時に「常時接続性」を孕んでいて、良くも悪くもこれがコミュニケーションに大きな変化をもたらしたりもした。

デジタルネイティブ論やデジタル・ディバイド論でまず語られるのが3歳くらいの子供のお話。今回も例に漏れず筆者の息子さん(3歳)がインターネットに夢中になるおはなしがあった。
幼児期の情報接触やメディア接触についてはむしろ教育論から語ったほうがよさそうだし、個人的にそっちには詳しくないのでなんともいえない。
小さな頃からインターネットに触れ、検索やハイパーリンク、シークバーといった概念を「普通」にしておいたほうがデジタルネイティブとして合理的で時代に合った人間に成長するのか。それとも「いつでも・どこでも・だれとでも」「なんにでも・クリックひとつで」なんていう全能感を何も知らないうちから与えてしまうと苦労のできない神さまごっこで傲る人間に育つのか。その答えは持ち合わせていない。
それでもやはり小さな子供がインターネットに触れる機会は確実にあって、それが与える影響もあるのだろう。
筆者はどちらかと言うとこれに警鐘を鳴らすタイプであった(というか本書のいたるところからアンチデジタルネイティブ臭はするんだけど)。

まぁでもこの問題に関しては自分も同感である。
というのも、検索というのは「生産」活動ではない。動画画像の視聴も消費であって、娯楽にはいいかもしれないが生業にはならない。その判断がつかないうちは便利すぎて危ないだろうと感じる。インターネットの全能感はシゲキが強すぎるんじゃなかろうか。もうすぐ大学を卒業する自分ですら時々恐ろしくなる。
むしろインターネットよりはインターフェースに触れさせたい。というのはまた別のハナシ。


そういえば平成元年生まれ(89年生まれ)はちょうど小学校に入るか入らないかでWindows95、その4年後にiモード、また少し後にブロードバンドの普及が進み、多感な時期に3Gケータイが登場したりして、彼らを取り巻く情報環境・コミュニケーション環境は大きな変化を遂げていたりしていた。確かにデジタルネイティブ第一世代とするには面白いのかもしれない。

機械好き、というかガジェットヲタな父のお陰様で自分は割と小さな頃からパソコンやインターネットには触れてきていた。もともと好奇心は旺盛な方で、中学生当時は途方もないくらい広大で深淵な情報の大海原に心底ハマったものだった。この頃のインターネットの使い方はおもにゲーム、当時はやっていた”おもしろ無料FLASH”の視聴、クラスメイトとのメール(当時は携帯電話を持っていなかった)などであった。しかし、ここでのインターネットの利用は高校進学以降のそれとは「時間の制約」という点で大きく異なる。
高校進学後はノートパソコンを一台買い与えられ、携帯電話も手に入れた。インターネットがついに自分の生活に入り込んできた瞬間だった。
この本での筆者の言葉を借りるとすれば「自分専用メディア」が登場したといえる。
プライベートで利用するパソコンによるインターネット、そしてモバイル(ケータイ)によるインターネットで、ついに自分の生活は常時接続された。
そこからはまさに「いつでも・どこでも・だれとでも」の世界であった。アドレスさえあればいくらでもメールでコミュニケーションが取れる。気になる情報にアクセスできる。両親からすればさぞかし不安だっただろう(一応見えないようにやっていたつもりであった)。

それほどに衝撃的であったインターネットショックは、当時(2005〜2007)の自分の生活を大きく変えた。そしてその衝撃を大学進学後、ソーシャルメディアの台頭という形でもう一度味わうことになる。
そんなこんなで、ギリギリ昭和世代の自分もなかなかにデジタルネイティブじみた時代背景を歩んできたように思える。

ここで書籍の話に戻ると、この本はインターネットがなんだ、ケータイがなんだというハナシよりは、「ソレを使う若者について」みたいな論調である。
我ながら「ソレを使う若者」であって、読み進めていく中でかなりの違和を感じていたのだけれど、「ソレを使う若者」のことと同時に「ソレを使わない者について」もいろいろ知ることができた(それ自体はあまり役に立ちそうにはないのだけれど)。



ちょうど来月からモバイルやソーシャルメディアに関わって広告という畑で仕事をすることになるのだが、むしろノンネイティブからの視点を学べたのはそれなりに意味があったのかもしれない。ぼくらにとってケータイは普通であって当たり前であって、「そうじゃない」ということを忘れがちでもある。最近新しくてクールで便利で素敵なサービスがPONPON出てくる。でも、それは全てではない。
モバイルを中心に面白いことをシカケていきたいので、もちろん「そうじゃない」ことだって知っておかねばならない。ちょっと背筋がシャキっとした。
なんだか読む前に考えていたことと内容はずいぶん違ったけど、かなり易しく復習できたのでまぁよしとするか。


いま現在インターネットに居て感じるのは、「ここに書かれているのはあくまでデジタルネイティブ第一世代」ということ。下手したらプロトタイプかもしれない。試作品。
現役の女子高生なんかに話を聞いてみると、ぼくら(大学生)とはまた違った使い方・ハマり方をしていたりする。彼女らには彼女らのステージやコミュニケーションがある。

ネイティブもその本質を常に変容させていると毎回思う。本当に使い方はそれぞれあって、そこにいろんな可能性やアイデアの余地があって面白くてたまらない。


この本で語られていた「デジタルネイティブ」は、むしろデジタルコミュニケーションネイティブと言い換えて問題ないと思う。実はコミュニケーションがモバイルインターネットにより時間的空間的制約を超越したあと、今度は「機会的制約」の超越がはじまりつつある。ぼくらは「ソレ無し」ではあり得なかった出会いを体験することができる。そしてそんな中いろいろ面白くなっているのは「ソーシャルネットワーキングネイティブ」だったりするんじゃなかろーか。これはリアルが大きく関わるため比較的年齢層が高めに設定されてそう。
この本(2009年)ではソーシャルメディアの台頭と、ソーシャル中毒者について言及されていなかった。mixiのことは若干触れてあったけど、コミュニケーションの常時接続性まで言っていたのでSNS上でのことも少し触れるかと思ったらそうでもなかった。

読んでいく中で、「結局、人間はさほど進化していない。」という一言がずいぶん突き刺さった。

スマートフォンが薄く大画面で高速で高画質多機能になるのは誰のためなんだろうか。

Webサービスが便利でクールで面白くなるのは何のためなんだろうか。

合理化や効率化の先には何があるんだろうか。


インターネットそれ自体は決して万能でもなければ全能でもない。

行き着く先がデジタル・クレバスのようなものでなければいいのだけど。
あんまりでじでじしすぎるのも考えものだなぁ。


以上。

SOCIAL MEDIA WEEK 「ニコニコ動画から見るメディア変革」メモ


世界12カ国で同時開催されているというソーシャルメディアウィークが、今回日本で初開催されることとなったらしいので、東京は講談社さんの方へ、何回か聴講に行った。今回は、一昨日とったノートを個人的な感想と一緒に簡単にまとめてみる。


1.ニコニコ動画から見るメディア変革 (杉本氏)

ニコニコ動画の広告収入はそんなに多くない。基本的に利益回収は広告とは別の場所で行なっている。しかし、ここ最近で数字も伸び、軌道に乗りつつあるので、もちろんこれをムダにするようなことはしない。

ニコニコ動画はそもそも「動画配信サービス」ではない。つまりyoutube,ustream,gyaoなどとはほとんど競合しない。
ニコニコ動画がユーザーに提供しているのは、「動画コンテンツ」ではなく、そこ(コンテンツ視聴)にいる発信者(うp主)を含めたすべてのひとびとのつながりや交流である。つまり、ニコニコ動画は視聴されるコンテンツではなく、参加される場である。動画といった文脈にコメントというテキストを与えて、コミュニケーションを成立させる。このコミュニケーションは動画の持つ時間軸に対応しており、実にインスタントな「擬似リアルタイム性」としておもしろいユーザー体験を与える。また、コメントが擬似リアルタイム的に蓄積することで、いくつものリアルタイムが本来の時間軸(普段生活しているもの)のなかに生まれ、それを摂取するためにユーザーは何度も同じ動画に足を運ぶ。この効果がニコニコ動画にとってとても大切。



・ユーザーは主に20代。(スライドに書いてあった数字には20代の二人に一人がニコニコ動画ユーザーと書かれていた)
ユーザーを年代別に分けてみると、どうしても40代以上がウィークポイントとなるが、しかしこれはニコニコ動画に限った話ではなく、他のwebサービス全体に言える課題である。今の20代が40代となった時、どうなているか。コンテンツもユーザーも、まだまだ伸びしろはあるのではないか、これからはより普及していくと見ている、とのこと。

・運営側はユーザーを3つのタイプに分けている。タイプAは投稿者、直接ニコニコ動画内にコンテンツをアップロードする、アクティブなユーザ。Bはコメント者、動画をアップロードするほどではないが、積極的にコメントし場を盛り上げる。Cは視聴メインのユーザー、コメントはほとんどしないが、動画のチェックは比較的アクティブに行なっている。数で見ればA

幸せについて本気出さないまでも考えてみた。


おかあさん、ぼくおおきくなったらリア充になりたい。


嗚呼、人はリア充になりたい。

リア充はなぜリア充なのか。人をリア充たらしめるものは一体なんだろうか。何がどうして視界の片隅を齧りとる彼らの楽しげなオーラはぼくをこんなに不安にするのだろうか、焦らせるのだろうか。そもそもリア充リア充たる要素はなんだよ。リアルならこっちだって充実しているよ。くだらない理由で夜更かしをして、好きなだけ本を読み、酒を飲み、美味い飯を肴に美味い酒を飲む。ひたすらくだらない話題で盛り上がってもう最高に楽しい。こんな時間がずっと続けばいいのに、そう心から思える。

でも。
それでもリア充にはなれない。
ちょっと雰囲気のいい、というと聞こえはいいけど、言ってしまえばやらしい感じのバーだかなんだかで怪しげなカクテルだかなんだかを引っ掛けて、いい年の男女がいい感じになる。大学受験を高校生が頑張れるモチベーション維持の妄想物語みたいなあれだ。
この広い空の下、そういうやりとりを楽しんでいる人たちもいる。知ってる、何人か知ってる。知らない人でも見たことある。


自分にはそういうのはあまりない。あっても何だかめんどうさそう。
でも羨ましくないかと言えばそれも嘘になる。
期待していないのだ、自分にも、環境にも。だってめんどうさそうなんだもん、お金もかかるだろうし。
もっと自分はおとなしくていいんだ。なんとなく、なにとなく。


それでもどこかで羨ましいんだろう、たぶん。
リア充を楽しめる、リア充なひとたちが。
リア充として、幸せになれるひとたちが。




幸せの正体は、"その境遇を幸せだと思えること"なのかもしれない。
幸せの正体は、なんてことのない、”あとだし”なのかもしれない。

なんてふと考える。

どういうことか、つまりも何もそのまんまで、たとえば上記のように常に異性との駆け引き、キラキラ市場、恋愛至上主義経済圏といった社会によって"リア充"としてラベリングされたその境遇を楽しめるか/幸せだと思えるかどうか。それがリア充かどうかなんじゃねえの、っていう話。

リア充論っていうのは結構荒れる。それはたぶん定義が曖昧だから。ある人にとってリア充非リアの基準は恋人の有無かも知れない、異性の友人数かも知れない、経済的余裕かも知れない、自分のために割ける時間の多寡かも知れない、えろいことする相手の有無かも知れないし、頭がいいとか勉強ができるとかかも知れない。


そんなもんはそれこそ人の数だけあるだろう。どれも等しく、平等にどうでもいい。
男女でも結構違う。男子なんかは単純なので"恋人、もしくはそれに準ずる仲の良い女性の有無"で語ることが多いようだ。女性はとても複雑でようわからん。どうやら彼氏的な存在がいても非リアらしいし、「愛」とか「気持ち」とか、「会いたくて会いたくて震える」とか、そういうのがキーファクターらしい。

ちなみに個人的にインターネットとか友人の話とか、そういうのを通してなんとなくぼんやりと定義するならば、リア充とは"楽しげな男女"としたい。とりあえず。

商品として、消費の記号として規定されたリア充。楽しげな男女。このレールというか枠というか、ドンピシャな人たちはきっといる。今日も視界に入ってくる。気になる。爆発してほしくなる。むしろ爆発してもいいからリア充になりたい。もはや爆発したい。
要するに男も女もなんだかんだ言いつつ、異性にモテたかったりする。それが利己的な遺伝子によって乗り物とされるしかない生物の運命だとか種の保存がどうのこうのみたいな話をするつもりはない。


自分がその境遇にありたい、そう思えるモノを実際に手に入れた時、はたしてそこに幸せはあるだろうか。という話に戻る。

「そうなりたいって思ってたんだから幸せに決まってるじゃない。」

なんていうのは子供の理論で思考停止で、もしかしたら世界で一番幸せ者なのかも知れない。
しかしそれで幸せになれるかと言えば、たぶん違う。

たとえるまでもなく、大好きで大好きでたまらないあの子が、なぜか(何かしら神懸かり的な強制力のもと)自分と結ばれるとしたら、それは自分は幸せでたまらんけれども、いきなりお前と結ばれるようになったあの子としてはどうよ。朝起きて顔を洗い、今日も乾いた笑いを鏡のなかのシケた野郎に投げかける男性も少なくあるまい。(ひでぇなこの顔)とか思いながら。どうなのそれ。

"さっきのセリフ、それ鏡の前でも同じこと言えるの?"

哀しきかな、幸せにしたい相手の幸せを、自分が叶えてあげられるとは限らないのである。まことに、哀しきかな。
また危惧すべきはそれだけにとどまらない。

理想と現実の狭間。
憧れと理解の狭間。



この深い溝に人は知らず知らず足を踏み入れ、知らない間にハマって動けなくなりがち。

イケメンになりたい、モテたい、と思っても実際、モテるぶんにはいいんだけど、その反面にあるイケメンモテ野郎の苦しい部分、デメリットを把握していないことが多い。
というか、どうしてできようか。凡庸な人ならそれすら羨むのだろうに。
ストーキングに悩むかも知れない。いつ付き合ったんだかどうだったかも覚えていないような熱烈なファンに夜道で刺されるかも知れない。


キラキラリア充だって大変なんだぞ。洋服や容姿には気を使わなければならないし、お酒も飲めば変なコールを覚えたり、気になるあの子のアドレスをゲットしたいだのマイミクになっただの、平日は授業をさぼりカフェとかなんかオサレなところでアルバイトして、何かあるたびにディズニーランドだのディズニーシーなんだぞ。期間限定で入場料が少しでも安くなれば、それは集合の合図だ。誕生日にはブランドもののバックやら時計だ。男女の仲には男女の数だけめんどくさい話もあるだろうし、とにかくめまぐるしく走り回っているはず。詳しくは知らん。

果たしてそれを飲み込めるか、飲み込めたとして、飲み込んだままの状況を幸せと呼べるのか。そこもまた問題だ。
さぁ世の中にリア充として認定された(その認定っていう概念が既に本末転倒だが)とする。幸せだろうか?
答えは出ない。そんなのはわからない。わかり得ないのだ。体験していないのだし、脳みそなんて自分の都合のいいようにいくらでもでっちあげを行う。自分の気持ちいいところは自分が一番よく知っている。
脳が作り上げた快楽空想世界の居心地はすごい。真冬のコタツ、真夏のエアコン効かせた部屋の如く、どうしようもなくなんとなくかったるい現実とは真逆のものをさらっと用意する。いわゆる"妄想"っていうやつ。
つまり、自分が「いいな」と思うもののうち、自分がそこまで到達していないものは全部魅力的に見える。

それはあこがれ。

それがしあわせかどうかはわからない。

しあわせと思うかどうかは、自分の勝手で相手の勝手で、少なくともいえるのは、自分は相当その境遇における自分への想像力が欠如している。

なにも恋愛だの大学生活に限った話ではない。大学生であれば就職活動とか、遠い将来とか遠くない将来とか現在とか、なにかと自分の立ち位置を周りと比べたくなるし、少しでも周りに勝ちたいと考えてしまう。
一体どんなルールのどんなゲームで勝ちたいのか、そんなことも特に考えずに、見えない敵と今日も戦う。
勝ちたいし幸せになりたいし羨ましく思われたい。承認欲求みたいなのに雁字搦めになるひともいる。
まったく本末顛倒もいいところだけれども。



”幸せ”とは”あとだしの解釈”なのかもしれない。
そのバリエーション、パターンを増やすのは、大学生活なのかもしれない。


なんて少々無理矢理な結びつけなきもするけど、実際4年間過ごしてきて、なかなか大学生というのはそういった「勉強」に向いているのかもしれないなんて最近思う。
もちろん大学生活じゃなきゃ、というわけではない。当然。

ここからは自分への戒めも込めて。


とある事実/現象はひとつでも、それを受け止める解釈は、その人の数だけ存在する。


「へえー、すごいね。」

そしてそれはもちろん、自分にもあなたにもあっちにいるひとにも目の前のおっさんにも新宿駅の駅員さんにもある。
そしてそれがどうやら「幸せかどうか」を決めるらしい。

「えー、じゃあ「解釈」すごいね。自分で考えるの?」


自分で思いついちゃったら何の苦労もない。

できない人はどうすればいいか。

じゃあ本を読め。
本というのは基本的に事実に対する筆者の解釈の塊。
基本的に一冊にひとつの解釈がこれでもかと論理強化され、説得力をまとって書いてある。
大抵「なるほど」ってなる。メモりたくもなる。日常生活に当てはめたくもなる。

とにかく読む。好きとか嫌いとかはあまり関係がない。
自分がその発想をもっているか、もっていないか。の方が大事な気もする。
結局読んで吸収したものは使わないと意味がない。本は読むものでも覚えるものでもなく、使うもの。

自分の中に、過去の偉大な人物やら、気鋭の新人やら、職人やら、思想家やら、学者やら、経営者やら国会議員やらコンサルタントや投資家や新聞記者に、もうとにかくいろんな人の解釈を注ぎ込む。
ティージョブズでもビルゲイツでもドラッカーでもバフェットでもホリエモンでも高田純次でもいい。
そのひとの解釈を、自分の中に取り込む。

そうして、自分の中の分母を増やす。

選択というのは

「自分の好きなもののなかから、うまくいきそうなものをえらぶ」のではなく。

「うまくいきそうなもののなかから、自分の好きなものをえらぶ」方が、なんだかんだうまくいくしストレスも少ない。

これには分母が必要になる。うまくいきそうな方法をいくつ知ってるか、が露骨に絡んでくる。
自分にとってしっくりくる解釈、自分の得意な解釈、そしてその状況にとって都合のいい解釈、これらをそろえておく。
解釈は世界を測る定規で、ルールで、武器だ。小回りが利くもの、破壊力のあるもの、使いやすいもの、扱いにくいもの、いろんなものを持ってた方が安心できる。
あっちではお金が大事かもしれないし、今日は愛が大切かもしれない。重要なのは利益であって、勝ち負けが明日の生活を分けるかもしれない。



あとだしじゃんけん”が、世に言う「良い選択」なのかもしれない。なんてぼんやり思うことがある。

だってそっちの方が損しないんだもの。しかも、そのくせ、うまくいくことが多いんだもの。

大切なことは早めに”あとだし”しておくことなのかもしれない。この早さとバリエーションを覚えるために、ぼくらには時間があるのかもしれない。

上記したのは本だったけど、人に会うのもいい、ベンチャーインターンするのもいい、緑の中を歩くのもいい、何もしないで寝ているのも結構。
何をするのかより、そこから自分が何を吸収できるかが問題だ。


幸せと思えるバリエーション。言い方を変えれば納得の道筋、発想の幅。

受け入れるのも、受け付けないのも自分だ。
充足するのも、苦悩するのも無論自分だ。



「何を幸せと思えるか」より、「いかにして今を幸せと思えるか」。

そういえばかつてそんな"幸せについて本気出して考えてみた"アーティストがいた。

”僕がかつて小僧の頃、イメージした壮大な
人生プランからは多少見劣りはする
案外普通だし、常識的なこれまでだ
それはそれなりに、そう悪くはないのさ。

そのプランじゃ今頃じゃマイケル的生活で
世界を股にかけていたはずなんだけれど
現実は澄まし顔でクルクル時計をまわす
そっちがその気ならと好きなことしてきたし”


(幸せについて本気出して考えてみた/ポルノグラフィティ/2002)

今の状況を思ってたものと違うだの、描いてた理想と違うだの、サイアクだの、恵まれないだの、
拒否することは簡単なのだが、そこで終わってしまっては、そこで終わってしまう。
それでいいならいいんだけど、あんまりそれでいいことをみたことがない。
たとえば今の状況が下から何番目にサイアクなのだろうか?超サイアクよりどうマシなのか。
考えないよりはマシなんじゃないだろうか。行動に移せたらすばらしいのではないだろうか。


嗚呼”決意”だの”決心”の意味のなさよ。それは”ちょっとポジティブな愚痴”じゃないか。平等に均しく意味がない。
結局アクションを起こさないと勝利はないなんて、わかりきってることじゃないか。


そのアクションへのハードルが少しでも下がるのであれば、自分のなかの価値観や世界観の角度を変え、解釈し直してみるのもいいんじゃなかろうか。


どう頑張っても向井理の方がかっこいい、どう頑張っても香里奈のほうがモテる。けどそれは無意識に自分が準備した土俵であって、ルールであって、解釈なのかもしれない。

はたして、万が一億が一、向井理よりイケメンになって俺は幸せだろうか。

そうとも限らないだろ、限らないに決まっている。さあ頭を動かしてみよう。















幸せだろうな、そう思わずにはいられない、この解釈力の貧弱さのおかげで今日も元気です。

まとまらなかった。
以上。

忘れるにはもったいない忘年会。

12月23日。

世間はやれリア充だのカップルだの非リアだの何だので、例年通り盛り上がりを見せ、寒さがまたスパイスとして浮き足立つ街のムードにパンチを効かせているし、そのパンチが効きすぎてグロッキーになる連中もちらほら。
クリスマスイブイブなんて呼ばれる23日に、恵比寿で開かれたとある忘年会に出席した。
メンバーはメディア系NPOのメンバー、一次会には大体20〜30名くらいいたのかな。この団体では自身もちょうど一年前になるが、とあるプロジェクトチームの一員としてお世話になった。様々なことを勉強させてもらった。今ですらこんなんなのに、当時はさらに未熟で未成熟であった。ただ、その目はとにかく可能性や面白いことを常に探し回っていて、大人しくなってしまった現在よりとにかく未熟で、そしてそれゆえに面白かった。と思う。

とにかくそうやってお世話になったひとたちと、そんな雰囲気と、久々に対面したのである。
実際いやしいことをいえば、当時の面白さを取り戻したかった。平気で企画とかバンバンやって、人を集めてなにかふわふわしたいろんなモノをつくって共有して、なんかよくわかんないけど気持ち良く学んでいた。そんないつだったかの刺激が欲しかった。
あれだ、いろーんなところで揶揄される、とんでもなくどうしようもなく意識が高い(笑)状態にいたってことだ。最近は妙に落ち着いてしまったこともあり、正直こんなんじゃつまらないのでそういう気鋭、みたいなものを大きく体いっぱいに吸い込みに行った。


吸えたらいいな、なんて思いながら。



一次会は一番下の座席からスタートした。そりゃまあ当たり前のことで、学生は僕を含めて4〜5人だった(全ての人と接してはいないので、なんとなくだけど)し、そもそもちょっと遅刻したからだ。
とにかく上から下まで、ピンからキリまでちぐはぐな、不思議な雰囲気で始まった。近況報告や初めて会う人も多かったので自己紹介など、そんな感じだった。二次会も、結構そんな感じだった。
二次会までは参加者が多いこともあったが、参加者の職業柄からかメディア関係やソーシャルなんちゃら、NPO、3.11、などかなり濃い話題が多く、話す内容はどれも最前線のこと。とんでもなく貴重で、何から何まで持って帰りたかった。
彼らにとっては肌感覚なのかもしれないけれど、僕はネットでしか見たことのないような、噂の上澄みを撫でたんだか舐めたんだかしかしたことのない言葉が、体験や意見といった強い説得力と鋭い切り口でつらつらと、まさに紡ぐように出てくる。それを華麗に絡めとり、また紡ぎ返す。
お酒をのみながら、さも世間話をしているかのように出てくる。もちろん個々の経歴も「なんじゃそりゃ」がてんこ盛りなんだけど、それらが全く嫌味を帯びずに、説得力と迫力を纏っている。頭がいい、すげえ、かっこいい。
よく"身近に憧れる大人を見つけておけ"なんて学生向けの啓蒙書に書いてあるけど、自分のそれは間違いなくここにいるこの人たちだ、とそう思っていたし、そうなんだと再認識した。ああ高意識イズム。

とにかく、そういう人たちのお話を聞きながら、お酒を飲んでいたのである。


そんな模様が一変したのが三次会。
グッと人数が減り、10人ちょっとだった気がする。共通の知り合いが知り合いを呼び、メンツは一次会が幕を開けた数時間前とは相当変わっていた。
そしてこの時のゲストがすごかった。
政界のひと、テレビ界のひと、IT界のひと、広告界のひと。ただの学生でしかない自分ですら、何かしら雑誌や本でみたこともあるひとたち。

まさに、「なんじゃこりゃ」の世界。
深夜2時まで続いたこの三次会で、自分は二言三言しかことばを発しなかった。

発することができなかった。

彼らの話題についていける知識も、体験も、意見も、予見も、何も持っていなかった。
目の前で繰り広げられる会話の、土俵に上がることすらできなかった。
とにかく耳をそばだて、ひとつでも多くのことばを拾うのに必死だった。
入店した順番上、真ん中から少し上座寄りに座ったのだが(もちろん学生は自分一人で、間違いなく一番下の席に座るべきだったのだけど)、テーブルは主に3つの対話群に分かれていた。
そのうちの二つを、頑張って捕捉していた……かったが、結局高次元過ぎて一つしか出来なかった。

失礼だとは重々承知の上で、その席で必死にメモらせていただいたので、それを思い出しつつ簡単にまとめておきたい。
こんなところで名前を出してもいいのか、っていう人もいらっしゃったので、そこはあやふやにする。
あとあまりにも密度が濃く、難しく、量が多くて心が折れそうなのでいくつかに分けることとする。

【しやべlるひとをめざす】

喋る人を目指す。ということか。
黙って周りに同調しているだけでなく、熟議に参加できる人間作りを。というテーマで政治の先生は話されていた。
やはり教育関係で活躍されていた、というかまとめてた方だったのでそういう話題が多かった。
三次会での話の基盤は、マスメディアとコミュニティメディアについて。先生はそこに地域と教育という切り口で突っ込んでた。

【さいげんせいはきえる】
再現性は消える。

上の教育関連の話題から広がった。
現在の教育の基本は"再現性"を中心にしたもの。
問いがあり、求められるべき解があり、◯と×があり、それに行き着く力を身につける。
つまり道筋や、前後に働きかける論理性を与える。
しかし、こういったタテ型の教育では現代で課題問題となっている問題に対して上手く答えが出ない。
というのも、もともと存在した公式では現在の社会の流れや変化には対応できないのだそうだ。
解をルールの中に求めるのではなく、旧いルールにとらわれず、新しいルールそのものを構想し解を創り出す力がないと太刀打ちできない。んだとか。
先生はその中に"情報の在り方"と、循環性を孕んだ地域エコシステムをキーファクターとしてあげていたように感じた。





【おしえる
いとおしむ
商業的ではない】
教えるという日本語の由来は"いとおしむ"から。教えるの語源は「愛しむ」。であるというおはなし。

"誰にも得手不手がある、

絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない"

といったのは吉田松陰であったか。
"学ぶ"の語源は"真似ぶ"とも言われているが、この能動的アクションに対して
同じ教育という現場に欠かせない"教える"という単語がむしろ"愛"、相手を想うところから来ているのは印象的で、そして納得であった。

教えるということには、愛がないといけない。

愛という無償の動機がその根源にあるべきで、それが商業的であってはならない。
商業的なプロパガンダに走り続ける教育の現場が実際には溢れている。
モンスターペアレントによるクレームを恐れてのあまりに教育的目標とかけ離れた対処がニュースで報道されることも少なくない。
全員が主役の演劇に、手をつないでゴールする徒競走に、学校が影を隠し続けた結果、最終的にいじめの隠蔽なんていう動きもあるんだとか。
教育は、どこへ行ったのか。




【メディア日つくばん】
ディアビックバン。だったと思う。あたらしいパラダイムの幕開けはいつだって痛みを伴う、というもの。
TwitterFacebook、その他様々なソーシャルメディアが作り出したコミュニティが社会や人々に大きな影響を与えた2011年。いま、マスメディア全盛のパラダイムはゆっくり次のステージに移りつつある。

これに関しては常から自分も感じていて、人々が見る世界はどんどん広くなりつつも、人々が暮らす世界は実は細分化されていくんじゃないか、と解釈した。
先生はそれを地域コミュニティに結びつけていた。そしてそこにある人々と文化の循環こそが、次なるメディアとしての機能を持つ可能性があるのだと、そういうことを言っているような気もした。
これがいつ、どういった形でビックバンを起こすかはぼくには分からない。それでも、人々の世界は間違いなく「広く浅く化」と「狭く深く化」が同時的に進んでいる。それは実感している。

【株式会社のおわり。】

最終的に、プロジェクトベースで活動するのであれば、
株式会社という携帯にこだわる必要はないんじゃないか。
つまり、生産活動を行う際に、今までのような会社による大規模でゴツい固まりじゃなく、フリーエージェントによるラピッドプロジェクトユニットに変容していくということ。
経営とか経済とか、そっち系に疎いので、興味深い話が多かったのだけれども、いまいちコミットできなかった。勉強不足。どうやらお話の中では、経済的にもそっちの方がいいんだよね、みたいなことになっていました。これがなんでだかはわかりませぬ。なんか賃金の側面から盛り上がっていた気もします。


【きよういくは想像力やそだてる】
なんにせよ、再現性だけではなく、想像、創造する力を育てないといけない。
っていうお話。もちろん高い再現性も重要だけど、それ一辺倒になるのも違うよね、と。
確かに再現性のテストは結果が明白でわかりやすい。実にわかりやすいんだけど、結局二番煎じじゃないかと。
日本はかねてから「秀才はよく育つが、天才が生まれない」といわれていたそうですが、まさにその通り。
世の中の再現性はどんどんコンピュータや技術に取って代わられてきている。このまんまじゃいかんだろう。という感じでした。



【教育にオールマイティはない】
学校だけではダメ。学校に全ての機能を実装しようとしても無理がある。
少子化ももちろん、教師学友等の環境には限界がある

"これだけをやっておけばよい"なんていう万能薬みたいな虫のいい教材は存在しない、ということ。
しかしながら教育機関である学校がその万能薬を目指している、というはなし。
さっきもあったが、モンスターペアレントっていうのはこの問題にも絡んでくるようで、つまり「学校教育の管轄外」を転嫁してくるひとたちともいえるのだとか。
そもそも、教育の舞台はどこか・教育者とは誰であるか、なんていう問題は大人が考えることじゃないような気もする。
コミュニケーションが発信者主体になりきれなくて、結局は受信者側の解釈に意味が主導されるようhに、結局のところ習う者である子供たちが何を学び何を教わるかを規定する。
つまり場合によっては彼らの目に映るすべてのもの、耳に届くすべての音が「先生」になりうる。
子供の吸収力を、大人の発想でパッケージングすることはできない。
学校教育は学校で、その他はその他で、餅は餅屋へ。子供たちにどんな体験や経験、教材を提供できるか。大人たちはそれが「教育」として試されているのかもしれない。


【効率の外側】
再現性教育の究極的目的はつまり効率性。でも効率性だけではなにも生まれない。
効率性の外側も見つめ直さないといけない、というおはなし。
これは先ほどから言われている再現性の限界という感じ。
無駄をどんどん省いて、洗練を繰り返していくけれども、いまいちど無駄な部分に目を向けてもいいんじゃないか、とのこと。効率や洗練ではなく、カオスの中からの創造が臨まれるとか…
この辺はあんまり覚えていないなぁ。残念。



とりあえずこの辺で。


全体的に、「日本の将来」なんて神々しくもバカデカいテーマだったが、結局は教育という問題に収束していったように思えた。
子供たちの居場所が全体的に商業めいてきてしまった感がある。
義務教育課程のまだ幼い子供たちにとって、大人たちにスクリーニングされてしまうことは致命的だ。
いや、死にはしない、だが困ったことだろう。大人としては子供たちに入り込む情報が掌握できると安心なのかもしれない。ただ、それでできあがるのは結局その大人のコピーだ。それじゃうまくいかない。自分が大人である今は良いかもしれない、それでも100年単位で考えれば逓減は逃れられない。というかこれは現在進行形な気がする。劣化コピーの大量生産では誰も幸せになれないのではなかろうか。
こうして話していくと、結局いつもの「既得権益層が〜」とか「日本の出る杭を打つ風潮が〜」みたいな話になってくるんだなぁと思いました、はい。


以上。