幸せについて本気出さないまでも考えてみた。


おかあさん、ぼくおおきくなったらリア充になりたい。


嗚呼、人はリア充になりたい。

リア充はなぜリア充なのか。人をリア充たらしめるものは一体なんだろうか。何がどうして視界の片隅を齧りとる彼らの楽しげなオーラはぼくをこんなに不安にするのだろうか、焦らせるのだろうか。そもそもリア充リア充たる要素はなんだよ。リアルならこっちだって充実しているよ。くだらない理由で夜更かしをして、好きなだけ本を読み、酒を飲み、美味い飯を肴に美味い酒を飲む。ひたすらくだらない話題で盛り上がってもう最高に楽しい。こんな時間がずっと続けばいいのに、そう心から思える。

でも。
それでもリア充にはなれない。
ちょっと雰囲気のいい、というと聞こえはいいけど、言ってしまえばやらしい感じのバーだかなんだかで怪しげなカクテルだかなんだかを引っ掛けて、いい年の男女がいい感じになる。大学受験を高校生が頑張れるモチベーション維持の妄想物語みたいなあれだ。
この広い空の下、そういうやりとりを楽しんでいる人たちもいる。知ってる、何人か知ってる。知らない人でも見たことある。


自分にはそういうのはあまりない。あっても何だかめんどうさそう。
でも羨ましくないかと言えばそれも嘘になる。
期待していないのだ、自分にも、環境にも。だってめんどうさそうなんだもん、お金もかかるだろうし。
もっと自分はおとなしくていいんだ。なんとなく、なにとなく。


それでもどこかで羨ましいんだろう、たぶん。
リア充を楽しめる、リア充なひとたちが。
リア充として、幸せになれるひとたちが。




幸せの正体は、"その境遇を幸せだと思えること"なのかもしれない。
幸せの正体は、なんてことのない、”あとだし”なのかもしれない。

なんてふと考える。

どういうことか、つまりも何もそのまんまで、たとえば上記のように常に異性との駆け引き、キラキラ市場、恋愛至上主義経済圏といった社会によって"リア充"としてラベリングされたその境遇を楽しめるか/幸せだと思えるかどうか。それがリア充かどうかなんじゃねえの、っていう話。

リア充論っていうのは結構荒れる。それはたぶん定義が曖昧だから。ある人にとってリア充非リアの基準は恋人の有無かも知れない、異性の友人数かも知れない、経済的余裕かも知れない、自分のために割ける時間の多寡かも知れない、えろいことする相手の有無かも知れないし、頭がいいとか勉強ができるとかかも知れない。


そんなもんはそれこそ人の数だけあるだろう。どれも等しく、平等にどうでもいい。
男女でも結構違う。男子なんかは単純なので"恋人、もしくはそれに準ずる仲の良い女性の有無"で語ることが多いようだ。女性はとても複雑でようわからん。どうやら彼氏的な存在がいても非リアらしいし、「愛」とか「気持ち」とか、「会いたくて会いたくて震える」とか、そういうのがキーファクターらしい。

ちなみに個人的にインターネットとか友人の話とか、そういうのを通してなんとなくぼんやりと定義するならば、リア充とは"楽しげな男女"としたい。とりあえず。

商品として、消費の記号として規定されたリア充。楽しげな男女。このレールというか枠というか、ドンピシャな人たちはきっといる。今日も視界に入ってくる。気になる。爆発してほしくなる。むしろ爆発してもいいからリア充になりたい。もはや爆発したい。
要するに男も女もなんだかんだ言いつつ、異性にモテたかったりする。それが利己的な遺伝子によって乗り物とされるしかない生物の運命だとか種の保存がどうのこうのみたいな話をするつもりはない。


自分がその境遇にありたい、そう思えるモノを実際に手に入れた時、はたしてそこに幸せはあるだろうか。という話に戻る。

「そうなりたいって思ってたんだから幸せに決まってるじゃない。」

なんていうのは子供の理論で思考停止で、もしかしたら世界で一番幸せ者なのかも知れない。
しかしそれで幸せになれるかと言えば、たぶん違う。

たとえるまでもなく、大好きで大好きでたまらないあの子が、なぜか(何かしら神懸かり的な強制力のもと)自分と結ばれるとしたら、それは自分は幸せでたまらんけれども、いきなりお前と結ばれるようになったあの子としてはどうよ。朝起きて顔を洗い、今日も乾いた笑いを鏡のなかのシケた野郎に投げかける男性も少なくあるまい。(ひでぇなこの顔)とか思いながら。どうなのそれ。

"さっきのセリフ、それ鏡の前でも同じこと言えるの?"

哀しきかな、幸せにしたい相手の幸せを、自分が叶えてあげられるとは限らないのである。まことに、哀しきかな。
また危惧すべきはそれだけにとどまらない。

理想と現実の狭間。
憧れと理解の狭間。



この深い溝に人は知らず知らず足を踏み入れ、知らない間にハマって動けなくなりがち。

イケメンになりたい、モテたい、と思っても実際、モテるぶんにはいいんだけど、その反面にあるイケメンモテ野郎の苦しい部分、デメリットを把握していないことが多い。
というか、どうしてできようか。凡庸な人ならそれすら羨むのだろうに。
ストーキングに悩むかも知れない。いつ付き合ったんだかどうだったかも覚えていないような熱烈なファンに夜道で刺されるかも知れない。


キラキラリア充だって大変なんだぞ。洋服や容姿には気を使わなければならないし、お酒も飲めば変なコールを覚えたり、気になるあの子のアドレスをゲットしたいだのマイミクになっただの、平日は授業をさぼりカフェとかなんかオサレなところでアルバイトして、何かあるたびにディズニーランドだのディズニーシーなんだぞ。期間限定で入場料が少しでも安くなれば、それは集合の合図だ。誕生日にはブランドもののバックやら時計だ。男女の仲には男女の数だけめんどくさい話もあるだろうし、とにかくめまぐるしく走り回っているはず。詳しくは知らん。

果たしてそれを飲み込めるか、飲み込めたとして、飲み込んだままの状況を幸せと呼べるのか。そこもまた問題だ。
さぁ世の中にリア充として認定された(その認定っていう概念が既に本末転倒だが)とする。幸せだろうか?
答えは出ない。そんなのはわからない。わかり得ないのだ。体験していないのだし、脳みそなんて自分の都合のいいようにいくらでもでっちあげを行う。自分の気持ちいいところは自分が一番よく知っている。
脳が作り上げた快楽空想世界の居心地はすごい。真冬のコタツ、真夏のエアコン効かせた部屋の如く、どうしようもなくなんとなくかったるい現実とは真逆のものをさらっと用意する。いわゆる"妄想"っていうやつ。
つまり、自分が「いいな」と思うもののうち、自分がそこまで到達していないものは全部魅力的に見える。

それはあこがれ。

それがしあわせかどうかはわからない。

しあわせと思うかどうかは、自分の勝手で相手の勝手で、少なくともいえるのは、自分は相当その境遇における自分への想像力が欠如している。

なにも恋愛だの大学生活に限った話ではない。大学生であれば就職活動とか、遠い将来とか遠くない将来とか現在とか、なにかと自分の立ち位置を周りと比べたくなるし、少しでも周りに勝ちたいと考えてしまう。
一体どんなルールのどんなゲームで勝ちたいのか、そんなことも特に考えずに、見えない敵と今日も戦う。
勝ちたいし幸せになりたいし羨ましく思われたい。承認欲求みたいなのに雁字搦めになるひともいる。
まったく本末顛倒もいいところだけれども。



”幸せ”とは”あとだしの解釈”なのかもしれない。
そのバリエーション、パターンを増やすのは、大学生活なのかもしれない。


なんて少々無理矢理な結びつけなきもするけど、実際4年間過ごしてきて、なかなか大学生というのはそういった「勉強」に向いているのかもしれないなんて最近思う。
もちろん大学生活じゃなきゃ、というわけではない。当然。

ここからは自分への戒めも込めて。


とある事実/現象はひとつでも、それを受け止める解釈は、その人の数だけ存在する。


「へえー、すごいね。」

そしてそれはもちろん、自分にもあなたにもあっちにいるひとにも目の前のおっさんにも新宿駅の駅員さんにもある。
そしてそれがどうやら「幸せかどうか」を決めるらしい。

「えー、じゃあ「解釈」すごいね。自分で考えるの?」


自分で思いついちゃったら何の苦労もない。

できない人はどうすればいいか。

じゃあ本を読め。
本というのは基本的に事実に対する筆者の解釈の塊。
基本的に一冊にひとつの解釈がこれでもかと論理強化され、説得力をまとって書いてある。
大抵「なるほど」ってなる。メモりたくもなる。日常生活に当てはめたくもなる。

とにかく読む。好きとか嫌いとかはあまり関係がない。
自分がその発想をもっているか、もっていないか。の方が大事な気もする。
結局読んで吸収したものは使わないと意味がない。本は読むものでも覚えるものでもなく、使うもの。

自分の中に、過去の偉大な人物やら、気鋭の新人やら、職人やら、思想家やら、学者やら、経営者やら国会議員やらコンサルタントや投資家や新聞記者に、もうとにかくいろんな人の解釈を注ぎ込む。
ティージョブズでもビルゲイツでもドラッカーでもバフェットでもホリエモンでも高田純次でもいい。
そのひとの解釈を、自分の中に取り込む。

そうして、自分の中の分母を増やす。

選択というのは

「自分の好きなもののなかから、うまくいきそうなものをえらぶ」のではなく。

「うまくいきそうなもののなかから、自分の好きなものをえらぶ」方が、なんだかんだうまくいくしストレスも少ない。

これには分母が必要になる。うまくいきそうな方法をいくつ知ってるか、が露骨に絡んでくる。
自分にとってしっくりくる解釈、自分の得意な解釈、そしてその状況にとって都合のいい解釈、これらをそろえておく。
解釈は世界を測る定規で、ルールで、武器だ。小回りが利くもの、破壊力のあるもの、使いやすいもの、扱いにくいもの、いろんなものを持ってた方が安心できる。
あっちではお金が大事かもしれないし、今日は愛が大切かもしれない。重要なのは利益であって、勝ち負けが明日の生活を分けるかもしれない。



あとだしじゃんけん”が、世に言う「良い選択」なのかもしれない。なんてぼんやり思うことがある。

だってそっちの方が損しないんだもの。しかも、そのくせ、うまくいくことが多いんだもの。

大切なことは早めに”あとだし”しておくことなのかもしれない。この早さとバリエーションを覚えるために、ぼくらには時間があるのかもしれない。

上記したのは本だったけど、人に会うのもいい、ベンチャーインターンするのもいい、緑の中を歩くのもいい、何もしないで寝ているのも結構。
何をするのかより、そこから自分が何を吸収できるかが問題だ。


幸せと思えるバリエーション。言い方を変えれば納得の道筋、発想の幅。

受け入れるのも、受け付けないのも自分だ。
充足するのも、苦悩するのも無論自分だ。



「何を幸せと思えるか」より、「いかにして今を幸せと思えるか」。

そういえばかつてそんな"幸せについて本気出して考えてみた"アーティストがいた。

”僕がかつて小僧の頃、イメージした壮大な
人生プランからは多少見劣りはする
案外普通だし、常識的なこれまでだ
それはそれなりに、そう悪くはないのさ。

そのプランじゃ今頃じゃマイケル的生活で
世界を股にかけていたはずなんだけれど
現実は澄まし顔でクルクル時計をまわす
そっちがその気ならと好きなことしてきたし”


(幸せについて本気出して考えてみた/ポルノグラフィティ/2002)

今の状況を思ってたものと違うだの、描いてた理想と違うだの、サイアクだの、恵まれないだの、
拒否することは簡単なのだが、そこで終わってしまっては、そこで終わってしまう。
それでいいならいいんだけど、あんまりそれでいいことをみたことがない。
たとえば今の状況が下から何番目にサイアクなのだろうか?超サイアクよりどうマシなのか。
考えないよりはマシなんじゃないだろうか。行動に移せたらすばらしいのではないだろうか。


嗚呼”決意”だの”決心”の意味のなさよ。それは”ちょっとポジティブな愚痴”じゃないか。平等に均しく意味がない。
結局アクションを起こさないと勝利はないなんて、わかりきってることじゃないか。


そのアクションへのハードルが少しでも下がるのであれば、自分のなかの価値観や世界観の角度を変え、解釈し直してみるのもいいんじゃなかろうか。


どう頑張っても向井理の方がかっこいい、どう頑張っても香里奈のほうがモテる。けどそれは無意識に自分が準備した土俵であって、ルールであって、解釈なのかもしれない。

はたして、万が一億が一、向井理よりイケメンになって俺は幸せだろうか。

そうとも限らないだろ、限らないに決まっている。さあ頭を動かしてみよう。















幸せだろうな、そう思わずにはいられない、この解釈力の貧弱さのおかげで今日も元気です。

まとまらなかった。
以上。