忘れるにはもったいない忘年会。

12月23日。

世間はやれリア充だのカップルだの非リアだの何だので、例年通り盛り上がりを見せ、寒さがまたスパイスとして浮き足立つ街のムードにパンチを効かせているし、そのパンチが効きすぎてグロッキーになる連中もちらほら。
クリスマスイブイブなんて呼ばれる23日に、恵比寿で開かれたとある忘年会に出席した。
メンバーはメディア系NPOのメンバー、一次会には大体20〜30名くらいいたのかな。この団体では自身もちょうど一年前になるが、とあるプロジェクトチームの一員としてお世話になった。様々なことを勉強させてもらった。今ですらこんなんなのに、当時はさらに未熟で未成熟であった。ただ、その目はとにかく可能性や面白いことを常に探し回っていて、大人しくなってしまった現在よりとにかく未熟で、そしてそれゆえに面白かった。と思う。

とにかくそうやってお世話になったひとたちと、そんな雰囲気と、久々に対面したのである。
実際いやしいことをいえば、当時の面白さを取り戻したかった。平気で企画とかバンバンやって、人を集めてなにかふわふわしたいろんなモノをつくって共有して、なんかよくわかんないけど気持ち良く学んでいた。そんないつだったかの刺激が欲しかった。
あれだ、いろーんなところで揶揄される、とんでもなくどうしようもなく意識が高い(笑)状態にいたってことだ。最近は妙に落ち着いてしまったこともあり、正直こんなんじゃつまらないのでそういう気鋭、みたいなものを大きく体いっぱいに吸い込みに行った。


吸えたらいいな、なんて思いながら。



一次会は一番下の座席からスタートした。そりゃまあ当たり前のことで、学生は僕を含めて4〜5人だった(全ての人と接してはいないので、なんとなくだけど)し、そもそもちょっと遅刻したからだ。
とにかく上から下まで、ピンからキリまでちぐはぐな、不思議な雰囲気で始まった。近況報告や初めて会う人も多かったので自己紹介など、そんな感じだった。二次会も、結構そんな感じだった。
二次会までは参加者が多いこともあったが、参加者の職業柄からかメディア関係やソーシャルなんちゃら、NPO、3.11、などかなり濃い話題が多く、話す内容はどれも最前線のこと。とんでもなく貴重で、何から何まで持って帰りたかった。
彼らにとっては肌感覚なのかもしれないけれど、僕はネットでしか見たことのないような、噂の上澄みを撫でたんだか舐めたんだかしかしたことのない言葉が、体験や意見といった強い説得力と鋭い切り口でつらつらと、まさに紡ぐように出てくる。それを華麗に絡めとり、また紡ぎ返す。
お酒をのみながら、さも世間話をしているかのように出てくる。もちろん個々の経歴も「なんじゃそりゃ」がてんこ盛りなんだけど、それらが全く嫌味を帯びずに、説得力と迫力を纏っている。頭がいい、すげえ、かっこいい。
よく"身近に憧れる大人を見つけておけ"なんて学生向けの啓蒙書に書いてあるけど、自分のそれは間違いなくここにいるこの人たちだ、とそう思っていたし、そうなんだと再認識した。ああ高意識イズム。

とにかく、そういう人たちのお話を聞きながら、お酒を飲んでいたのである。


そんな模様が一変したのが三次会。
グッと人数が減り、10人ちょっとだった気がする。共通の知り合いが知り合いを呼び、メンツは一次会が幕を開けた数時間前とは相当変わっていた。
そしてこの時のゲストがすごかった。
政界のひと、テレビ界のひと、IT界のひと、広告界のひと。ただの学生でしかない自分ですら、何かしら雑誌や本でみたこともあるひとたち。

まさに、「なんじゃこりゃ」の世界。
深夜2時まで続いたこの三次会で、自分は二言三言しかことばを発しなかった。

発することができなかった。

彼らの話題についていける知識も、体験も、意見も、予見も、何も持っていなかった。
目の前で繰り広げられる会話の、土俵に上がることすらできなかった。
とにかく耳をそばだて、ひとつでも多くのことばを拾うのに必死だった。
入店した順番上、真ん中から少し上座寄りに座ったのだが(もちろん学生は自分一人で、間違いなく一番下の席に座るべきだったのだけど)、テーブルは主に3つの対話群に分かれていた。
そのうちの二つを、頑張って捕捉していた……かったが、結局高次元過ぎて一つしか出来なかった。

失礼だとは重々承知の上で、その席で必死にメモらせていただいたので、それを思い出しつつ簡単にまとめておきたい。
こんなところで名前を出してもいいのか、っていう人もいらっしゃったので、そこはあやふやにする。
あとあまりにも密度が濃く、難しく、量が多くて心が折れそうなのでいくつかに分けることとする。

【しやべlるひとをめざす】

喋る人を目指す。ということか。
黙って周りに同調しているだけでなく、熟議に参加できる人間作りを。というテーマで政治の先生は話されていた。
やはり教育関係で活躍されていた、というかまとめてた方だったのでそういう話題が多かった。
三次会での話の基盤は、マスメディアとコミュニティメディアについて。先生はそこに地域と教育という切り口で突っ込んでた。

【さいげんせいはきえる】
再現性は消える。

上の教育関連の話題から広がった。
現在の教育の基本は"再現性"を中心にしたもの。
問いがあり、求められるべき解があり、◯と×があり、それに行き着く力を身につける。
つまり道筋や、前後に働きかける論理性を与える。
しかし、こういったタテ型の教育では現代で課題問題となっている問題に対して上手く答えが出ない。
というのも、もともと存在した公式では現在の社会の流れや変化には対応できないのだそうだ。
解をルールの中に求めるのではなく、旧いルールにとらわれず、新しいルールそのものを構想し解を創り出す力がないと太刀打ちできない。んだとか。
先生はその中に"情報の在り方"と、循環性を孕んだ地域エコシステムをキーファクターとしてあげていたように感じた。





【おしえる
いとおしむ
商業的ではない】
教えるという日本語の由来は"いとおしむ"から。教えるの語源は「愛しむ」。であるというおはなし。

"誰にも得手不手がある、

絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない"

といったのは吉田松陰であったか。
"学ぶ"の語源は"真似ぶ"とも言われているが、この能動的アクションに対して
同じ教育という現場に欠かせない"教える"という単語がむしろ"愛"、相手を想うところから来ているのは印象的で、そして納得であった。

教えるということには、愛がないといけない。

愛という無償の動機がその根源にあるべきで、それが商業的であってはならない。
商業的なプロパガンダに走り続ける教育の現場が実際には溢れている。
モンスターペアレントによるクレームを恐れてのあまりに教育的目標とかけ離れた対処がニュースで報道されることも少なくない。
全員が主役の演劇に、手をつないでゴールする徒競走に、学校が影を隠し続けた結果、最終的にいじめの隠蔽なんていう動きもあるんだとか。
教育は、どこへ行ったのか。




【メディア日つくばん】
ディアビックバン。だったと思う。あたらしいパラダイムの幕開けはいつだって痛みを伴う、というもの。
TwitterFacebook、その他様々なソーシャルメディアが作り出したコミュニティが社会や人々に大きな影響を与えた2011年。いま、マスメディア全盛のパラダイムはゆっくり次のステージに移りつつある。

これに関しては常から自分も感じていて、人々が見る世界はどんどん広くなりつつも、人々が暮らす世界は実は細分化されていくんじゃないか、と解釈した。
先生はそれを地域コミュニティに結びつけていた。そしてそこにある人々と文化の循環こそが、次なるメディアとしての機能を持つ可能性があるのだと、そういうことを言っているような気もした。
これがいつ、どういった形でビックバンを起こすかはぼくには分からない。それでも、人々の世界は間違いなく「広く浅く化」と「狭く深く化」が同時的に進んでいる。それは実感している。

【株式会社のおわり。】

最終的に、プロジェクトベースで活動するのであれば、
株式会社という携帯にこだわる必要はないんじゃないか。
つまり、生産活動を行う際に、今までのような会社による大規模でゴツい固まりじゃなく、フリーエージェントによるラピッドプロジェクトユニットに変容していくということ。
経営とか経済とか、そっち系に疎いので、興味深い話が多かったのだけれども、いまいちコミットできなかった。勉強不足。どうやらお話の中では、経済的にもそっちの方がいいんだよね、みたいなことになっていました。これがなんでだかはわかりませぬ。なんか賃金の側面から盛り上がっていた気もします。


【きよういくは想像力やそだてる】
なんにせよ、再現性だけではなく、想像、創造する力を育てないといけない。
っていうお話。もちろん高い再現性も重要だけど、それ一辺倒になるのも違うよね、と。
確かに再現性のテストは結果が明白でわかりやすい。実にわかりやすいんだけど、結局二番煎じじゃないかと。
日本はかねてから「秀才はよく育つが、天才が生まれない」といわれていたそうですが、まさにその通り。
世の中の再現性はどんどんコンピュータや技術に取って代わられてきている。このまんまじゃいかんだろう。という感じでした。



【教育にオールマイティはない】
学校だけではダメ。学校に全ての機能を実装しようとしても無理がある。
少子化ももちろん、教師学友等の環境には限界がある

"これだけをやっておけばよい"なんていう万能薬みたいな虫のいい教材は存在しない、ということ。
しかしながら教育機関である学校がその万能薬を目指している、というはなし。
さっきもあったが、モンスターペアレントっていうのはこの問題にも絡んでくるようで、つまり「学校教育の管轄外」を転嫁してくるひとたちともいえるのだとか。
そもそも、教育の舞台はどこか・教育者とは誰であるか、なんていう問題は大人が考えることじゃないような気もする。
コミュニケーションが発信者主体になりきれなくて、結局は受信者側の解釈に意味が主導されるようhに、結局のところ習う者である子供たちが何を学び何を教わるかを規定する。
つまり場合によっては彼らの目に映るすべてのもの、耳に届くすべての音が「先生」になりうる。
子供の吸収力を、大人の発想でパッケージングすることはできない。
学校教育は学校で、その他はその他で、餅は餅屋へ。子供たちにどんな体験や経験、教材を提供できるか。大人たちはそれが「教育」として試されているのかもしれない。


【効率の外側】
再現性教育の究極的目的はつまり効率性。でも効率性だけではなにも生まれない。
効率性の外側も見つめ直さないといけない、というおはなし。
これは先ほどから言われている再現性の限界という感じ。
無駄をどんどん省いて、洗練を繰り返していくけれども、いまいちど無駄な部分に目を向けてもいいんじゃないか、とのこと。効率や洗練ではなく、カオスの中からの創造が臨まれるとか…
この辺はあんまり覚えていないなぁ。残念。



とりあえずこの辺で。


全体的に、「日本の将来」なんて神々しくもバカデカいテーマだったが、結局は教育という問題に収束していったように思えた。
子供たちの居場所が全体的に商業めいてきてしまった感がある。
義務教育課程のまだ幼い子供たちにとって、大人たちにスクリーニングされてしまうことは致命的だ。
いや、死にはしない、だが困ったことだろう。大人としては子供たちに入り込む情報が掌握できると安心なのかもしれない。ただ、それでできあがるのは結局その大人のコピーだ。それじゃうまくいかない。自分が大人である今は良いかもしれない、それでも100年単位で考えれば逓減は逃れられない。というかこれは現在進行形な気がする。劣化コピーの大量生産では誰も幸せになれないのではなかろうか。
こうして話していくと、結局いつもの「既得権益層が〜」とか「日本の出る杭を打つ風潮が〜」みたいな話になってくるんだなぁと思いました、はい。


以上。