「デジタルネイティブの時代」なんて言ってた時代は続くよいつまでも。

デジタルネイティブの時代』東洋経済新報社 木下晃伸 2009・5・14

デジタルネイティブの時代

デジタルネイティブの時代


ブックオフでチラッと目に入った、買ってみた。そして読んでみた。どうやらデジタルネイティブなるものがついに社会に進出し、ノンネイティブである筆者はじめ昭和生まれの人々は不安になっているらしい。この本はそういったノンネイティブな人たち向けの書籍みたいだった。

筆者は冒頭からデジタルネイティブとそうでない者を平成生まれか昭和生まれかという基準で分けている。もちろん定義は広く知られている「物心がついた時にインターネットが身の回りにあったか否か」というものなのだけれど。個人的にはぶっちゃけ情報環境なんて家庭次第でもあるし、自分もギリギリ昭和生まれ世代なのだが実家(群馬県の片田舎)の方を見て平成生まれの知り合いが皆デジタルネイティブかといえばこれにはNOと言わざるを得ない。この本が書かれた2009年ではもちろん、アップルのiPhoneGoogleAndroid搭載機種が都心部で急増してきた現在ですらスマートフォンの普及率が高いとは言えない。みんなまだ「ぱかぱかするもしもし」を愛用中である。
これにはCGMによるコンテンツ不足や情報サービス環境の未成熟といった側面がちゃんとあって、「群馬が未だに狩猟採集生活を営んでいて、画面を衝撃から守るため」とかいうハナシではない。

とにかくインターネットに疎い層というのは平成生まれにも存在する。そんな気がする。もちろんゼロ年代生まれ、みたいに情報社会の成熟が進んだ今ではまた事情も変わってくると思うけれど。
そして、昨今実際に言われている「デジタルネイティブ」とは、割と物心がついた頃からパソコンやインターネットに触れて育ち現在もスマホやらタブレットやらに指を滑らせている自分とも異なったメディア感覚を持っているんじゃないかと最近思えるのである。



とにかく平成生まれをデジタルネイティブとする分類法にちょろっと疑念を持ちながらも読み進めていく。

2006年、1984年に昭和生まれの人口が1億人を超えて以来、初めて「昭和生まれ人口が一億人を割る」。この年は奇しくもジョージ=オーウェルが情報統制が敷かれ、個人が消滅する中央集権的未来を予想した1984年であり、同時にそれをアップルコンピュータ社がMACKINTOSHで打ち破ったあの1984年である。
そしてちょうど昨年の2011年には、「平成生まれの新社会人(大卒者)がデビューする」年であった。
なぜ筆者がここまで昭和世代と平成世代に戦を引きたがるのかはわからないけど、そういう背景がここ数年にちょうどあった。


「革命とは時間の短縮であり、空間の超越である」なんてことも言いながら、インターネットの出現について「コミュニケーションの革命」であるとする。
たしかにインターネットはコミュニケーションメディアとして時間的空間的制約から大きく解放されている。殊にモバイルインターネットといわれている領域であれば、デバイスの携帯性もあって「いつでも・どこでも・だれとでも」を体現している。
しかしながらこの空間的時間的制約からの解放は同時に「常時接続性」を孕んでいて、良くも悪くもこれがコミュニケーションに大きな変化をもたらしたりもした。

デジタルネイティブ論やデジタル・ディバイド論でまず語られるのが3歳くらいの子供のお話。今回も例に漏れず筆者の息子さん(3歳)がインターネットに夢中になるおはなしがあった。
幼児期の情報接触やメディア接触についてはむしろ教育論から語ったほうがよさそうだし、個人的にそっちには詳しくないのでなんともいえない。
小さな頃からインターネットに触れ、検索やハイパーリンク、シークバーといった概念を「普通」にしておいたほうがデジタルネイティブとして合理的で時代に合った人間に成長するのか。それとも「いつでも・どこでも・だれとでも」「なんにでも・クリックひとつで」なんていう全能感を何も知らないうちから与えてしまうと苦労のできない神さまごっこで傲る人間に育つのか。その答えは持ち合わせていない。
それでもやはり小さな子供がインターネットに触れる機会は確実にあって、それが与える影響もあるのだろう。
筆者はどちらかと言うとこれに警鐘を鳴らすタイプであった(というか本書のいたるところからアンチデジタルネイティブ臭はするんだけど)。

まぁでもこの問題に関しては自分も同感である。
というのも、検索というのは「生産」活動ではない。動画画像の視聴も消費であって、娯楽にはいいかもしれないが生業にはならない。その判断がつかないうちは便利すぎて危ないだろうと感じる。インターネットの全能感はシゲキが強すぎるんじゃなかろうか。もうすぐ大学を卒業する自分ですら時々恐ろしくなる。
むしろインターネットよりはインターフェースに触れさせたい。というのはまた別のハナシ。


そういえば平成元年生まれ(89年生まれ)はちょうど小学校に入るか入らないかでWindows95、その4年後にiモード、また少し後にブロードバンドの普及が進み、多感な時期に3Gケータイが登場したりして、彼らを取り巻く情報環境・コミュニケーション環境は大きな変化を遂げていたりしていた。確かにデジタルネイティブ第一世代とするには面白いのかもしれない。

機械好き、というかガジェットヲタな父のお陰様で自分は割と小さな頃からパソコンやインターネットには触れてきていた。もともと好奇心は旺盛な方で、中学生当時は途方もないくらい広大で深淵な情報の大海原に心底ハマったものだった。この頃のインターネットの使い方はおもにゲーム、当時はやっていた”おもしろ無料FLASH”の視聴、クラスメイトとのメール(当時は携帯電話を持っていなかった)などであった。しかし、ここでのインターネットの利用は高校進学以降のそれとは「時間の制約」という点で大きく異なる。
高校進学後はノートパソコンを一台買い与えられ、携帯電話も手に入れた。インターネットがついに自分の生活に入り込んできた瞬間だった。
この本での筆者の言葉を借りるとすれば「自分専用メディア」が登場したといえる。
プライベートで利用するパソコンによるインターネット、そしてモバイル(ケータイ)によるインターネットで、ついに自分の生活は常時接続された。
そこからはまさに「いつでも・どこでも・だれとでも」の世界であった。アドレスさえあればいくらでもメールでコミュニケーションが取れる。気になる情報にアクセスできる。両親からすればさぞかし不安だっただろう(一応見えないようにやっていたつもりであった)。

それほどに衝撃的であったインターネットショックは、当時(2005〜2007)の自分の生活を大きく変えた。そしてその衝撃を大学進学後、ソーシャルメディアの台頭という形でもう一度味わうことになる。
そんなこんなで、ギリギリ昭和世代の自分もなかなかにデジタルネイティブじみた時代背景を歩んできたように思える。

ここで書籍の話に戻ると、この本はインターネットがなんだ、ケータイがなんだというハナシよりは、「ソレを使う若者について」みたいな論調である。
我ながら「ソレを使う若者」であって、読み進めていく中でかなりの違和を感じていたのだけれど、「ソレを使う若者」のことと同時に「ソレを使わない者について」もいろいろ知ることができた(それ自体はあまり役に立ちそうにはないのだけれど)。



ちょうど来月からモバイルやソーシャルメディアに関わって広告という畑で仕事をすることになるのだが、むしろノンネイティブからの視点を学べたのはそれなりに意味があったのかもしれない。ぼくらにとってケータイは普通であって当たり前であって、「そうじゃない」ということを忘れがちでもある。最近新しくてクールで便利で素敵なサービスがPONPON出てくる。でも、それは全てではない。
モバイルを中心に面白いことをシカケていきたいので、もちろん「そうじゃない」ことだって知っておかねばならない。ちょっと背筋がシャキっとした。
なんだか読む前に考えていたことと内容はずいぶん違ったけど、かなり易しく復習できたのでまぁよしとするか。


いま現在インターネットに居て感じるのは、「ここに書かれているのはあくまでデジタルネイティブ第一世代」ということ。下手したらプロトタイプかもしれない。試作品。
現役の女子高生なんかに話を聞いてみると、ぼくら(大学生)とはまた違った使い方・ハマり方をしていたりする。彼女らには彼女らのステージやコミュニケーションがある。

ネイティブもその本質を常に変容させていると毎回思う。本当に使い方はそれぞれあって、そこにいろんな可能性やアイデアの余地があって面白くてたまらない。


この本で語られていた「デジタルネイティブ」は、むしろデジタルコミュニケーションネイティブと言い換えて問題ないと思う。実はコミュニケーションがモバイルインターネットにより時間的空間的制約を超越したあと、今度は「機会的制約」の超越がはじまりつつある。ぼくらは「ソレ無し」ではあり得なかった出会いを体験することができる。そしてそんな中いろいろ面白くなっているのは「ソーシャルネットワーキングネイティブ」だったりするんじゃなかろーか。これはリアルが大きく関わるため比較的年齢層が高めに設定されてそう。
この本(2009年)ではソーシャルメディアの台頭と、ソーシャル中毒者について言及されていなかった。mixiのことは若干触れてあったけど、コミュニケーションの常時接続性まで言っていたのでSNS上でのことも少し触れるかと思ったらそうでもなかった。

読んでいく中で、「結局、人間はさほど進化していない。」という一言がずいぶん突き刺さった。

スマートフォンが薄く大画面で高速で高画質多機能になるのは誰のためなんだろうか。

Webサービスが便利でクールで面白くなるのは何のためなんだろうか。

合理化や効率化の先には何があるんだろうか。


インターネットそれ自体は決して万能でもなければ全能でもない。

行き着く先がデジタル・クレバスのようなものでなければいいのだけど。
あんまりでじでじしすぎるのも考えものだなぁ。


以上。