神様のくしゃみを受けた街-3.11 気仙沼の夜-

リンク:【ただの日記】3.11っていう日、気仙沼の夜と自分。



今朝は午前中に友人宅を出発、仙台をあとにして気仙沼を目指すことを目標にしていました。
とりあえず仙台だし牛タン食うべ牛タン、と思いつつもそんな朝からほとんど焼肉なモノを売っているところなどなく、残念ながら偶然目に入ったたいやき(具たくさんカレー)が気になり朝ごはんとした。これがまためちゃくちゃうまかったので今度は是非牛タンをいれて欲しいもんだ。

とりあえず東北では仙台から様々なところへ行けるみたいなので、近場にある松島を選択。これは仙石線という電車で30分程度、松島海岸という駅で降車。まぁ適度に島を見て海を見て、韓国から来た海外旅行客の集団と仲良くなったり地元のガキんちょに絡まれたりしながら東北本線松島駅を徒歩で目指す。
そこからは一ノ関駅岩手県)に突入。この時、気仙沼いきの電車のなかで例の14時46分を迎える。
そこからは非常に長い乗車時間を経て16時半頃、気仙沼駅に到着する。


気仙沼は個人的に思い入れの深い地域だ。それは小さい頃に行ったことがあるとか、好きな場所だったからというわけではない。
ただ去年の今頃、地震の影響で電車が使えなくなり帰宅難民化した自分が一泊する大学のスクリーンで見たNHKのあの光景、火災と津波に飲まれていく気仙沼をみて初めて「未曽有の大災害」の意味を実感した。あのときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。それこそ世界が滅びてもおかしくないようにすら感じられた。


そしてあれから一年。ぼくはその街に来た。

駅を降りてまず目に入ったのはどこまでも透き通るような青い空だった。

しばらく駅前をふらふらしていると、どうもどうにもならないことに気がつく。どこまで行っても道。そんなとき、大学の友人が偶然気仙沼に来ているというので合流した。そのまま彼のお世話になっているというホテル望洋さんに泊めていただけることに。あとで聞いたハナシ、何をするにも駅前からでは徒歩でどうにもならないらしかったので、彼やホテル望洋さんに出会わなければ雪の降る東北は気仙沼で野宿し凍死するところだった。


ホテル望洋さんは、宿泊客への対応をしている一方で気仙沼へボランティアでやってきた人々や復興支援チームの活動拠点という存在でもあった。そこで社長や女将をはじめたくさんの人に出会った。地元気仙沼のひと、遠くから来たひと、自分と同じように大学生も多かった。あの震災からちょうど一年というこの日にも、急遽泊まることになった自分をその夜から食事に招いてくれ、その後は楽しい宴まで参加させてくれた。ほんとうにありがたいことだ。実はこの日NHKの番組がここホテル望洋からの生中継だったらしく、同じ食卓に渡辺謙さんがいた。やっぱりめちゃくちゃかっこいいし、気さくな方だった。そしてなによりオーラが凄かった。番組のほうは上手くいったらしい。さすがの生中継、スタッフの緊張感や一体感が痛いほどに伝わってきた。すごかった。チームワークだった。

食後はしばらく自由時間。その後はメンバーの中にカクテルをシャカシャカ作れるひとがいたので彼が部屋の片隅にバーを開き、みんなで集まっていろんな話をした。結局夜中の二時くらいまで騒いでいたのだろうか。部屋を軽く片付けて、寝ることとした。



この日大きく感じたのはテレビに限らず、日本の中心部(非被災地域?)と、被災地の意識のズレ。応援だとか、がんばろうとか、あきらめないとか、そんなのは当たり前すぎて、こっちではあまり見聞きしない。ほぼすべての人達のなかにある共通意識だから、そんなに仰々しく連呼されるとかえって陳腐になる。

そして被災地の方々におそらくもっとも失礼なのが「かわいそう」という言葉だろう。
正直に言うと、被災地は楽しい。道行く人々はみなエネルギーに満ちていて、「やってやるぞ」という意識を持ち何かに打ち込んでいる。
それを非被災地の人が見て「かわいそう」と言うのはちょっと違和感がある。もちろん大変なことがあった。住み慣れた家は消え、人も消え、モノも流され押し潰され消えていった。だがしかし、気仙沼の、彼らの「未来」もそうかといえば、ぼくはそうは思えなかった。

「目の前に、なんとかしたい今がある」。そのエネルギーで今日もみんな楽しそうに復興作業に打ち込む。みんなが、ひとりひとりが、できることをやる。少なくとも、ぼくがいた東京ではなかなか見つけられなかった強い前進の感覚が今日も渦巻いている。誤解を恐れず言えば、むしろ「かわいそう」なのはありふれた日常の中で「いきる」ことすらただの作業となった無感覚的に埋没している平穏のなかのひとたちなのかもしれない。

昨夜の宴の中、ホテル望洋の社長さんが笑いながら言っていた。
気仙沼はね、神様のくしゃみを受けた街なんだ。別に誰が悪いとかではなく、ちょっと神様がくしゃみをしたんだ。俺らは大変だけど、でもちゃんと頑張ってる。それをさ、ちょっと”どんな感じかな?”みたいな感じでいろんな人に知ってもらえればいいんだ。」

また別のひとはみんなで集まって食べる夕飯中に「今日はなんだか正月みてぇだな」なんて笑いながら言っていた。

そうか、ちょうど一年。ぐるっと回ってきたんだ。たしかにあの震災で受けた衝撃は甚大だった。精神的なダメージもある。
だからこそ、「あの日」は被災地の方々の中で、より一層「あの日」になっている。それから一年。いろんな辛いことがあって、でも頑張って、少しずつではあるが明るいこと、楽しいことも増えてきて、そして一年が経った。「この調子で”頑張ろう”。」ここまできて初めて口にできることば。

2012年3月11日、この日一番元気だったのは被災地の人々だったのかもしれない。とさえ思えてくる。


もちろん大変なことがあった。住み慣れた家は消え、人も消え、モノも流され押し潰され消えていった。だけれども、気仙沼の、そこに住む人たちの「未来」もそうかといえば、ぼくはそうは思えなかったのだ。


未来を照らすのは街の街灯でも、ビルの放つ照明でもネオンでも、走り交う自動車のライトでもなかった。
そこに住んでるひとたちの持つ、たくさんの明るさだった。
なんだかいつのまにか忘れていた、とても大切なことを思い出したような気がした。



負けねぇぞ、気仙沼。絶対に、また来ます。