4年間の部活動を通して学べたほんの5つのこと。


先日は所属する大学の部活で「追いコン」なるものがありました。この追いコン、なんと「四年生を追い出すコンパ」であって、そのとき出席していた四年生はなんと自分一人であり、まだまだ可愛い一年生、小憎たらしくなってきた二年生、就活に追われどこか大人びてきた三年生、そしてOBの方々など、下から上まで様々な方に出席していただいた。そしてそれは同時に自分一人がこの大衆どもの攻撃対象となったことを意味している。畜生。どうもありがとうございました。

さて、現役の選手として練習に参加できるのももうあと幾日。先日の挨拶は明らかに酔っていたし、なんせいきなりというものもあってまったく意味不明なことを言っていたと思う。割とキツかったし。それではあんまりなのでこの前言いたかった(だろう)ことをちょっとここにまとめてみる。





1.常にいまその瞬間を全員で楽しめ。

「これが我が部のモットーである。」

なんて教わったのももう四年も前になるのか、時間の流れというのは本当にはやい。

この集団にはいろんな活動がある。練習はもちろん、年に二回の大学対抗戦、またそれ以外の試合や合宿、飲み会もある、練習後にみんなでファミレスに行ってダラダラすることもある。
プライベートで遊びに行ったりもする。うん、いろんな活動がある。
そして本当にいまの現役は結束力が強いと思う。素晴らしい。しかしそれが両手離しで喜べることかというと、当然リスクもある。気を付けねばならないこともある。組織の結束が強固になる、成員同士の関係性の強化の裏側に排他性の強化を材料にしているケースが多い。前者は非常に生産的でいい状態だと思う。後者は組織論的に見れば危険の予兆でもある。それも肌では感じられるが目には見えず、無意識的にその流れに加担しているケースも多く非常に厄介。その偽りの楽しさは亀裂を生む。今ではない、今すぐにではない。でもいつかきっと何かがあると思えて仕方がない。それぞれの分子間の結び付きが強けれべ強いほど、組織に生じる亀裂は大きく再生が難しい。集団で加速度的に盛り上がっているとき、なんとなく違和感を感じたら気にしてみて欲しい。
いろんな活動がある中で、「いまその環境を全員で楽しめているか?」という問いを自らに投げかけて見られるといい。誰かが楽しめていないのなら、そこに手を伸ばせるような集まりであればいい。大学生活四年間のなかで、この部での活動をとおして、そういう人になれたら素敵だなと思います。
決して短くはない大学生活の、きっと多くの部分を共有する仲間だから、誰かを消費してすり減らして結束するのではなく、おもしろいこと、楽しいことを創造して結束して欲しいなと。

誰かが楽しくないのは、たぶんなんだかんだ皆楽しくない。

「誰かひとりでも楽しくないやつがいたら、それはウチとしては面白くない。だから面白くあるのは難しいんだ、もちろん難しい分楽しいんだけど。」
なんてことをビールを飲みながら言う人達がいたんだから、無理じゃないはず。




2.学べ。

「学び」という日本語の語源は「真似び(まねび)」であるという。つまり学ぶこととは真似ること。たとえばサービスが上手くいかない、レシーブのやり方がわからない、試合に勝てない、いろんな学びの必要性があることは、各々が身をもって知っているはず。ではその解決のためにどんなことができるだろうか。まず結果を持つものごとには、それ相応の原因がある。原因と結果、当たり前すぎて忘れがちだけど、これらは対になっている。自分の外に目を向ければ、実は答えはあの練習場に満ちていたりする。自分ができなくても、その技術を実行している人がいる。「偶然だろうが奇跡だろうが一回でもできれば地球上の物理法則において可能だということ、その技術は”可能”だ。あとはやり方次第、練習で精度を上げていく」なんてことをかの水谷くんも言っていた。
なにも練習場や台の上にしか答えがないというわけでもない。思わぬヒントというものはどこに転がっていてもおかしくない。孫子の兵法を読むもよし、宮本武蔵の武士道から知るもよし、スティージョブズでもゲイツでも孫正義でもホリエモンでも、なんでもいい。それが実戦で威力を発揮さえすれば。
それに気付けるか、どうか。
上手くいったこと、失敗したこと、楽しかったこと、悔しかったこと、哀しかったこと、勝ったこと、負けたこと。世の中にはいろんな原因と結果、事実と解釈があってそれぞれ紐解き仕組みを知ること、これが大事。混同してしまうといろいろと勘違いや間違いを生む。
それぞれはたしかに結びついている、でもちゃんと個々の事象をしっかり独立させて考えよう。

あのコースにドライブを打つとどうやら効く。
このサービスでラリーを開始すると、自分が優位に立てる気がする。
今までレシーブはツッツキが基本形と考えていたがどうやら違うらしい。

「なぜそうなったのか→では、どうすべきか/どうすべきではないか。」という意識を常に持ち続けていきたい。

これはコミュニケーションにおいても同じ。

こう伝えると上手く伝わる。
こういうことを言われて嫌だった。
この指示では人間が上手く動かない。
こう言うと面白さが伝わるみたいだ。

学生の構成するコミュニティにおいて、コミュニケーションに齟齬が発生するだいたいの理由は、相手への「なぜ」の説明が不足していて、相手が自分たちの文脈を理解している/察知することができるだろう、という発信者側の傲慢な論理的飛躍である場合が多い。そのネタは誰に通用して、通用しない場合はどのように伝えるべきなのか、そこを解決すれば(あとは受信者の価値基準だけど)うまくいく。


気にすべきは"what"よりも”how"や"why"であったりする。
手にした手札はもう決まっている、問題はそれをいかに使うかだ。

ちょっとでも「?」ってなったのなら、すかさず「なんでだろう」「どうすればいいんだろう」を発動できるといい。
これは今後の人生も絶対役に立つと思うんだ。




3.記録せよ。

上で書いたように日々意識を続けて気づき、学んでいったところで毎日同じコースをたどっているのでは正直に言って時間の無駄。和泉キャンパスに通っているいまはわからなくても学生時代というものは有限で、それは多かれ少なかれいまこの瞬間も一分一秒と終わりへ近づいている。あと一ヶ月もない状態で気がついてもそれは切ないだけで何ももたらさない。
そんななか、毎度毎度同じ事に気づき感動していては到達地点がどんどん手前になってしまうし、成長の、自分の飛距離が伸びない。なので気がついたこと、学んだことは適宜記録すべきである。(忘れなければしなくてよいのだけれど、そういう人を自分は今まで見たことがない。)
わかりやすく言えばノートでもつけるといい。日記とはちょっと違うけど、「今日はどんな練習をした」、「誰と試合してどうなった」「それは自分的にはどうだった」、「よくできたところ」、「今後課題にしていくところ」、贅沢を言えば「課題を克服するにはこうすれば良い」ところまで書けると素晴らしい。とにかく日々の活動を目に見える形に、自分で手を動かして記録しているだけで成長のスピードはまるで違う。地元の中高生に教えるとき、自分はまずノートを作れと言うし、なんだかんだ中学で恩師に教わって以来、自分もずっとつけてきた。
ノートをつけ始めると、何でもない練習が「とある一日」以上の意味合いを持つようになる。そして前回出来なかったことをするために、そして前回より良くなるために練習を行う。そうしたら成長ははやい。
”今を生きろ”なんて言われているけど、今を充実して生きるには過去と未来への意識は欠かせない。過去から積み上げてきたから今があり、今この瞬間は明日来週来月来年の自分を作る大切な要素になる。わかりやすく言ってしまえば、次回の大学対抗戦の自分が何をしているか、どんなことをしているかは、すでに今の自分がその命運を握っている。次回の大学対抗戦の自分が何をしていたくて、どのようなことをしたいのか、そこに貪欲でありたい。

「前回の自分よりももっと強く、上手く。」を意識し続けるには、なかなかいい方法だと思う。
目の前にいる相手より、過去の自分に負けてしまう方が何よりも悔しかったりする。

時間は有限だ。だけどたくさんある。
無駄にしないためにはまず、記録せよ。




4.あるものは使え。

単調な練習や練習後のファミレスなどだけでなく、時々我が部の活動には非日常が用意されていたりする。いわゆるイベントごと。数年前、飲み会皆勤賞を狙っていた自分は召集がかかる度に”普段あまり話したことのない人と話せる”と考えてわくわくしていた。珍しい人が練習に参加したら自ら開催したりもした。今と違ってアグレッシブでした。そんなこんなで東都七大学連盟に関われたりもした。
いざ始まれば飲み会には年功序列で上座だの下座だの、めんどくさい座り方やビールの注ぎ方、口の利き方につまみの食べ方、興味も関心も沸かない先輩の説法などもうクソめんどくさいルールだらけで「同期と一緒にいたほうがラク」だと思うかもしれない。正しい。たぶんソッチのほうがラクだ。でも勿体無い。
基本的に後輩から先輩へというベクトルになるけれど、相手のことは多く知っておいたほうがいいし、実は役に立つ人脈や特技、趣味を持つひともいる。そんな打算抜きで話していて楽しい人もいる。少なくとも「普段あまり話したことがない」という人と話すだけで、なにかしら数分前の自分をアップデートできる。これは予想以上に大きい。なんせ自分が普段あまり話したことがないということは、相手も自分と普段あまり話したことがないということだ。相手に与える影響も大きいだろうし、それが何がしかの化学反応を起こさないなんて、誰にも否定出来ない。
自分と主義思考が似通った人と話すことはとても大切だが、それと等しく自分とズレている人と話すことにも意味があると思う。
周りにはいろんな人がいる。学部もそれぞれ違う、趣味もそれぞれ違う、住んでいるところ、バイト先、戦型、自分は自分にとってだいたいちっぽけで、だからこそ外から輸入してみる。
飲み会において声をかけるのに理由なんていらないし、禁則事項もない(犯罪にならない範囲内で)。時間もある、金も(どうせライフラインが止まらない程度には)ある、確実に二次会もある、あるものは使え。
そしていつか立派に使われる側になろう。なってみてわかったのだけど、割と使われる側も楽しかったりする。頼られるひとになるには頼りになる人から学ぶのが最も早い。
そうやって先輩から後輩へ、タテにイイモノを受け継いでいける団体になるといいな。自分の頃はそうだったのだけど、これからもそうであって欲しい。

いちばん哀しいのは四年間かけて”使えない集団”になってしまうことだ。




5.挑戦しろ。

練習がぐんぐん上手くなるひとがいる。人間には熟練という性質があって、これは「同じ事を繰り返している時間が長くなるにつれて、その作業の精度や効率が向上していくこと」であるのだけれど、ではその熟練が自己の目的となっているひとはどれだけいるだろう。競技として楽しんでいる限り、卓球には反対側に相手がいて、そいつより一球でも多く返球することで点数を稼ぎ、試合に勝つことが目的としては一般的であったりする。

目的は何だろう、それを考える。そしてその目的達成のためにはどんな要素が必要だろうかも考える。考えるだけでなく紙か何かに書くことをおすすめする。人間は頭だけでは動けないので(タウンワークを読んでバイトした気になる、みたいに動いた気にはよくなれるんだけど)。

考え方。
ふと、漠然と、漫然と、なんとなくぼんやりと浮かぶ「〜したい/〜なりたい」をひとつキャッチする。それに「なぜ?」を掛ける。「なぜ」を掛けて「〜から」を弾き出す。そしたらそれにまた「なぜ?」を掛ける。どんどんやってく、いつか「なぜ?」に対して有効な回答が出せなくなる、それが「目的」だったりする。
目的はだいたい天高く聳える。今の自分じゃほとんど手の届かない場所にあるけど、いまはそっとして置いておく。
次にすることはその目的に「そのためには?」を掛けていく。どんどん掛けていく。これはたぶんキリがない。でもどんどん具体性を帯びてくる、なんだかできそうな気がしてくる。それが「目標」である。

目標に向かって挑戦する。たぶん上手くはいかない。というのもそもそも挑戦する対象というのはできないことのほうが多いからだ。普通、できることには「挑戦」という日本語は使わない。んでまぁ、挑戦はたぶん上手くはいかない。失敗する、できない。それでもやる。
もちろん挑戦しながら考えることは大切。だけど挑戦しようか考えるのはあまり有効ではない。どちらかというと挑戦する前に考え始めると、「挑戦しない方法」を考えがちであるからだ。
それじゃ昨日までとなんら変わらない。新しい技術、戦術、思想や目的は見つからない。多くの教科書が「理論と実践」なんてタイトルという一番大事なところで謳っているように、理論はもちろん実践だって欠かせないのである。
最初は皆出来なかった、あのイチローですら最初はハイハイしてたわけ。
すごいひとってみんなその中でどうやったらできるかを考え続けてきた。その仲間入りをすることは、何においても重要で、そのための期間なんじゃないかというくらい学生生活と相性が良い。
昨日出来なかったことに今日挑戦して明日できるようになる、それが成長とか言うんじゃなかろーか。スポーツでも、それ以外でも。

苦労は買ってでもすべき、なんて言わないけど、少なくとも「機会は買うに値する」と思えて仕方がなかった4年間でした。





目の前で後輩たちがESを書いている、そんな昼下がり、明大前のガストより。

以上。