「i」のある生活。


ついに明日発売ですね、iPhone4S。また今朝はiOS5が配信され、「未来キタ!!」などいろんな方々の驚きと喜びと興奮の声がこれでもかと聞こえてきます。今回のOSアップデートは僕もとても楽しみにしておりました。とくにiPadでのアップデートです。これまでのOSより、ダイレクトにアプローチできる情報の種類が大幅に増えたので、ここぞとばかりあの大画面が活きてくることでしょう。

さて、来年からウェブ業界、とくにモバイルの分野に関わることになっているので、昨今のスマホブームにはこれでも頑張ってついていっているのであります。とくに最近は林檎マークの会社やアンドロイドの会社に加えて、ウィンドウズの会社も参入してきたり、アジアでハード作ってたところが自社OSに乗り出したりなどてんやわんやで一日たりとも目が離せない。おまけにほぼ毎日といっていいほど最新機種の情報がリークされ、さっきまで最新機種だったアレがもう時代遅れ、とくに日本なんかはもうてんやわんやのわんわんお、なのである。

さて、そんなこんなで自分は現在iPhone3GSiPad2を持ち歩いて生活しているが、これがどうも珍しく映るらしくよく「どうなの?」と聞かれる。それはもう週に3回くらいのペースで聞かれる。いったい何がどうなのか、どんな回答が期待されているのかわからないしめんどくさいので「ふつうだよ」とブン投げた回答をしているのだが、ここらでちょっと自分のためにもまとめなおしてみたいと思う次第である。



まずよく聞かれるのは「スマホってどうなの?」ということ。
どうなのってどうなの?と毎回聞き直したくなるのだが、そんなわけにもいかないのでちょろっと考えてみる。
スマートフォンという次世代携帯電話みたいに巷では言われているが、実はそんな大それたものではない。というのも、実はスマートフォンと従来のケータイ(フューチャーフォン・ガラケー)の間に明確な定義による差はない(文化的な側面での定義で)。強いていうなればスマホはアプリインストールによって機能拡張の幅が広い、ということくらいだろうか。それ以外は普通のケータイだ。デザインなんかは画面がとにかく大きく、タッチ操作で直感的!みたいなことが言われてるけど、従来のケータイでもそういうデザインのはいくつかあった。(au[sportio] http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090702/1027505/?rt=nocnt など。)
実は日本ではタッチスクリーン型のケータイはそこまで流行らず、いわゆるパカパカ型と融合してスライド式ケータイみたいなデザインに落ち着いていた。でも最近ではまたフルスクリーンのスマホが流行りつつある。これはもうアップルさんすげぇ、としか言いようがない。だってかっこいいんだもの、アイテムとして。とにかく今流行に流行ってて、これがすごい波になっている。どこのスマートフォンもあのカタチ。もちろん例外もあって、個人的にはそっちのほうに注目している。([AQUOS PHONE THE HYBRID 007SH] http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/1105/20/news038.html )

次に機能的な面についてだが、実はこれもできることできないこと自体にそこまで差がないのでは、と感じている。そもそもガラケースマホの見た目が違う通り、ものごとのやりやすさ、やりにくさは確実に存在するも、できない/できる、ということにそこまで固執する必要はないんじゃなかろうか。どっちを使うにしろ、絶望的に困るという場面はないと思う。たとえばスマホのメリットは画面がデカイ、のでインターネットやそのたいろいろでなんか見る、読むに長けている。つまりブラウジングがしやすい。まぁ当然だよね、画面がデカイんだから。ズームイン/アウトもラクラクだし、カーソルとは違って指で遠いところを一発指定もできる。(これはむしろタッチ型ケータイの特徴だけど)
じゃあガラケーは?というと、(一般的に)キーが付いていることだろう。あのポチポチ感に実はいろんなところで助けられている。スマホだと「打ち込む」という感覚がどうも乏しいため長文を打つのはキツイ。あと意外とタイプミスが出たりする。そういうストレスや精度的な面ではガラケーのほうがいい。スマホはそこをフリック入力といったインターフェースで上手く別の回答を導いていて、慣れてしまえばむしろそっちのほうが使いやすいなんて人もいるんだけど。
まぁでもボタンが多いのは機能が多いデバイスにとって有利。ショートカットとか呼び出しも素早くできるし。

「でもスマホのほうがいいっていうじゃん」ってそりゃおめぇ売れるからだよ、とか夢のないことを言ってしまうのもアレだけど、実際そういうのはあると思う。「Android」とか、「未来へ行くならスマホ」とか言っておけば売れる。日本すごい。掃除機とか洗濯機にAndroidOS積んでも売れそう。ただ、いまのインターネットを見ていると、(時代というと大げさなので)、そういった界隈の動きは確実にスマホのほうへ歩き出している感は否めない。今回はアプリの充実、外部サービスの増加っていう意味で。とくに最近話題のSNS群。TwitterFacebook、それ以外にも実はニッチで面白いサービスがたくさんあり、それらは主にインターネット上で動作し、どちらかというとコンパクトな発信と莫大な量の情報のシャワーを浴びることを想定しているので、インターフェースもろもろがスマホを考えたものになっている。特に最近顕著なのがmixiさん。あのインターフェースは完全にTwitterFacebookを意識していて、一時期みられたポータルサイトちっくな見た目じゃなくなった。マイミク(可視化されたユーザー)のアクティビティをストリームに一本化するという形は画面が大きく、しかも縦長で、指をポインターとして操作するスマートフォンと非常に相性がいい。時系列もリアルに把握できるし、持ち運べて電車内でもチェックできるモバイルとは相性がいい。評判はなぜか悪い。

「えー、じゃあスマホがいいんじゃん!」
っていうのも、そういうサービスを使うのであれば、というハナシ。たとえば朝起きてRSSで今朝の最新ニュースをがっつり読む。Twitterでリアルタイムな世の中の動きを読む、ヒマがあればGPSを起動させチェックインする、友達のおいしそうなランチにイイネを押す、常に生活の隙間に情報と触れ合う仕組みを張り巡らせるような人間であれば、スマホはそういうのに向いているので生活が捗るだろう。
逆にひとつのコミュニティでがっつりメールや電話でやり取りをする、文字をガシガシうってオシャレなメールを作っちゃうタイプにはあんまり向かない。というかもともと日本人に合うように独自に進化した(=ガラパゴス化した)ケータイなんだから、基本的に大多数はガラケーで何の問題もないと思う。むしろ最近の国内産のスマートフォンガラケー化が激しく、どんどん「普通のケータイ」に近付いていっている。たいていのことはプリインストールされてるアプリでも賄えるし、せっかくの機能拡張という差別化すらなくなりつつある。ガラスマ(=ガラパゴススマートフォン)なんていう意味不明なワードも出てきて、日本人は「高価値=高機能」みたいな思考回路しているため、もはや国内で売られているスマートフォンは全然スマートじゃない。まぁ当然の結果だとは思うけど。
使う場面を、使う機能を、そして使い心地を想定してみればいい。とくになんのWebサービスの恩恵も受けずにメールや電話機能を重要視するならガラケーのほうがいい。スマホにとって電話もメールもただの一機能にすぎない。大事なのはアプリだもん。ウェブブラウジングが本分で、メールや通話は二の次って感じすらある、でもそれでいい。えー、メールとかマジ大事じゃん、みたいな人たちはいまさら便利だからって箸でゼリーを食べるような不便さを自ら選びとって被りに行く必要はない。ゼリー食べるならスプーンを使おう、スプーンを。

スマートフォンがスマートなのか、無用の長物なのかは持ち主がスマートかどうかで決まる。というのを聞いたことがあるが、ガラケー使ってるやつがバカなのかというと、そうでもない。ただ、よく考えずにスマートフォンに乗り換えちゃうやつをあんまり頭がいいとも思えないのは事実。

スマホってなにができるの?」とか聞いちゃうのであれば、それはまだちょっと話が早いと思う。スマホに乗り換えてその恩恵を被る人間は、目の前の人に聞く前に検索窓に検索ワードを打ち込むような人間だ。いままでリアルで行ってきたことをバーチャルに、いままでバーチャルであったことをリアルに持ってくるのがスマートフォン。その意味がよくわからなかったらそんなに急いで変更手続きをする必要は感じられない。リアルをよりリアルに、バーチャルをよりバーチャルにするフューチャーフォンで十分間に合うし、そっちのほうが向いている。


iPadにも同じことが言える。このデバイスについてはいろんなところでいろんなことが言われてるんだけど、一ユーザーとして感想を述べればまさに「魔法のデバイス」(キリッ。ジョブズさんアンタすげーよ。生きてるうちにお目にかかって感謝の意を述べたかったものだ。

iPadに関して言えば「なにができるの?」よりは「iPhoneとはどう違うの?」という質問が集中する。

あえて言おう、画面の大きさであると。

まぁそんなことは当然で、歴然とした事実であってそれ以上でも以下でもない。んで、何ができるのかというとiPhoneのそれとほとんど同じで、でもちょっと腰を据えたいときにしっくりくる、という感じ。



そもそも僕がスマートフォンを使っている理由は主に二つ。

ひとつはTwitterfacebookといった情報収集、コミュニケーションといったソーシャルネットワーキングのため。
やっぱりスマホならネットだ。情報がいちばん早くて、いちばん多い。正しいかどうかとか、質的な意味は抜きにして。とにかくやわらか銀行さんのか弱い電波とか気にしてられない。

もうひとつはクラウドで管理している文書を作成したり資料閲覧したりするため。クラウドっていうのはネットに自分のスペースを設けてそこにバーチャルな保存スペース、いってみりゃUSBメモリを置いておく、とかそんな感じだとわかりやすいかも。そんでそのUSBメモリにどこからでもアクセスできて便利やん、みたいな。とにかくパソコンとスマホを連動させる。パソコンでやったことはスマホで見られるし、スマホでメモっといた資料はパソコンで確認できる。いつでも、どこでも。編集だって提出だって出来ちゃう。無敵。しかもほぼ無料、素晴らしい。

このふたつ。んでiPadはそれらをより便利に、そして快適にする。画面の一覧性、入力のしやすさ、とんでもなく長いバッテリー、持ち歩けるサイズと重さ。これがなんとも絶妙に、巧妙に、普段の生活にしっくりくる。非常に感覚的で説明ができない。ただ使えばわかる。しっくりくる。「おまえ日常生活のここでこういう風に入り込んでくるのかー」と言わんばかりに密着してくる。すごい。
とにかくこれによって日常生活における読む・書くは一段階進化したし、それによって考えること覚えることの効率も一段階進化した。※おまけにアウトプットも、もう一段階進化してほしいところ。


またよく聞かれるのが「iPhone」との差別化について。
個人的にはそんなに差別化を意識する必要があるもんかなぁ。と思うのだが、買うための理由、買わないための理由として確かに必要な要素でもある。
これら二つのデバイスの差別化は、とくに意識していない。「あーこっちのほうがいいなぁ」とか、「ここにきてこいつは不便だぜ…」みたいなのはあるけど、結局どちらも肌身離さず持ってるわけだから、便利なほうをその都度選択している。確かに機能面でかぶる部分は多いが、それはむしろどちらかが力尽きたとき、もう片方でカバーでき、日常生活に支障を来すようなリスクを回避できるという面でメリットなんじゃなかろうかとか考える。iPhoneではこれはやらない!iPadではこれはやらない!というものはほとんどない。結論から言っちゃうとどっちも便利である。確かに汎用性の高さでいえば(サイズとか)iPhoneのほうが重要ではあるかも。その機能をよりよくするという意味でiPadは成立する。
もちろんガラケーと組み合わせても十分可能。通話やメールといった対人コミュニケーションの安定性という意味ではガラケーiPadはすごくバランスのいい組み合わせかも。


ちなみにぼくは現在(2011/10/13)の時点でパソコンを所持していない。正確にいえばあるんだけど実家に置いてきている。すべてのあれやこれやをiPhoneiPadで片づけている。意外となんとかなるもんだ、と我ながら驚いている。もちろんこのエントリーみたいに長文をダラダラ書き続けるのはきつい(ので大学のパソコンを使ってます)けど、意外と何とかなる。というかなんとかできる能力よ在れ。
つまり「そういうひとがいるんだからあたしも!」みたいなのは結構危険で、実はどうにもならないこともある。それは仕方がない。各個々人が活動しているフィールドやポジションはそれこそ多種多様なので、自分ぐらいがなんとかなってもみんなにそう言えるかといえばNO。それは各自で判断してくださいよ、ってこと。


スマートフォンタブレット、実はそれ自体はただの画面でしかなくて、そこに何をブチ込んで、何を映して、自分の日常生活をどうデザインするか。ここが問われるアイテムである。非常に能動的な、自分からどうにかしてやろうという意気が求められるもの。なので優良なアプリ、サービスに関する知識というのは日々集めて納得がいくものを探し続けなければならない。それが楽しくもあるし、自分の隙間時間を充実させるものでもあるのだけれど、そんな暇がない、めんどくさい、キモい、なんであたしがそんなことやんなきゃいけないの、みたいな人はガラケーへGo。それでいい。そのほうがいい。あれはあれで素晴らしくパッケージ化されていて、同じくらい便利だ。
モバイルというのはなんだかんだ生活にすごく密着していて、face to faceでなければコミュニケーションの玄関口となっている。使いやすい使いにくい、便利か不便かでその人と、その人に関わる誰かの生活を大きく変えうる。売れてるものじゃなくて必要なもの。便利そうなものじゃなくて使えるもの。しっかりと考えて買いましょう。



何でもできる、何でも叶えてくれる魔法の画面ではない。ということ。
だからこそ、夢があるんだけれども。


適当だけど、そんな感じで。はい。