「勝てた」試合に「勝てなかった」選手

先日、大学の部活の後輩やOBさんと出場した卓球の試合があった。その日は後輩3人と自分の四人1チーム。それぞれでダブルスを3つ作りそのうち2つが勝ったチームが勝利するという小さな団体戦であった。会場は東京都某区の小学校の体育館。場所もマイナーだし体育館もすごく大きいという訳でもない普通の体育館であった。ぶっちゃけてしまえば、かなりチープな感じが漂っていた。

チームを組んだ後輩2人はカットマン。守備型であり台から距離をとり相手のミスを誘うタイプの戦型である。もう一人はフィジカルが強く、強いボールを打つことのできるパワーヒッター、サービスも巧みで浮いたボールを一発で持っていく超攻撃型の選手。実力的にはパワーヒッターの後輩がひとつ抜けており、その下にカットマンの二人がいた。

この日の最後の試合が非常に印象的だったので、ここで記事にしたいと思う。

その日のラストの試合は年配の方3人のチームであった。この大会、チームのメンバーが何人いようと試合に出ることができるのはそのうちの3名で、その3名で3通りのダブルスを組むことになっていた。ローテーションで出場順が決まっており、試合に向かう後輩3人を見送った。

大学生と齢70前後とも思われるおじいさん。たいていの競技であればフィジカルの強い大学生がよぼよぼの年寄りなど余裕でフルボッコ...なのかも知れないが、卓球というのは非常に奥が深く、クリエイティブなスポーツであり、そう簡単にもいかない。

なんせ本当に強いおじいさんにもなると、若くてゴリゴリした学生に何もさせず汗一つかかずに勝利したりする。筋力だとか、そういう問題ではない。そこには光る技と戦術があり、相手をハメにいく。本当に何もできず、筋力任せにこっちが空回りをしてあっという間に試合が終わる。そういうものなのだ。

個人的に自分も学生相手であればそこそこの実力(としておきたい。)のであるが、一回、よぼよぼのおじいさん、それも自分の祖父と同じ年くらいの方にボッコボコにされた経験がある。おばあちゃんでもそうだ。まったく油断ができない。むしろ学生以上に厄介ですらある。

さて、結局その試合。結論から言えば負けた。ひとつめのダブルスは0-3のストレート負け、次のは1-3だった。
試合直前、おじいさんたちから声をかけられ「お手柔らかに頼むよ」「ちょっと遊んでおくれよ」「本気はやめてね、腰が壊れちまうよw」といわれた。まったく愛嬌のある人たちである。物腰柔らかく、丁寧で優しく、人間としては非常に魅力的だ。

でも目の前にあるのは勝ち負けのあるスポーツの試合である。

1ゲーム11点、それを3ゲームとってチームを勝利に導かなければならない。試合とは、勝負とは、そういうものである。

しかし少し気になったのが後輩たちの様子だった。話しかけてくれたおじいさんたちに笑顔を振りまき、場は和み、そして気も緩んでいた。

試合前、アドバイスに向かうとあまり緊張していない様子だった。嫌な予感しかしなかった。

試合開始後、やはり少し手を抜いているようにしか見られなかった。簡単なミスが多く、そして相手の強打を浴びすぎた。あっという間に終わったが、第一ゲームを相手にとられても危機感がない。

「少しミスが多かっただけ。大丈夫、次ちゃんとやればいい。」

そうして同じようにして第二ゲームも相手に連取された。第三ゲーム目ではさすがに目も覚めたのか、真剣な面持ちでコートに向かうも逆に緊張してうまくゲームが展開できない。だんだん強気で打ち込むようになった時には時既に遅し、ストレートで敗北した。

二番手の二人も同様に、負けた。

試合に出た選手はいらいらしていた。それは当然だ。どう見ても自分より弱い(風に見える)相手に、腕っ節では絶対に負けないような年寄りに、何もできず負けたのだから。後輩の一人が言った。

「いまのは絶対に勝てた試合だった...」

このことばを聞いて感じたことが二つある。今日はそれについて書いてみたい。

「いまのは勝てた試合だった」そういった後輩に「なぜそう思うか?」と尋ねてみた。

たしか「相手がお年寄りであり、フィジカルはこっちが勝っている、ボールのスピード、回転量、威力はこちらの方が上だった。また自分たちが格下であるというということを試合前に言ってきたし、実際にそう感じた」といったことを答えてくれたようにおぼえている。

さて、それで彼は「勝てた試合」だったというが、それはどうだろうか。端から見ていれば敗色濃厚にみえた。それもそうで、実はあのおじいさんたちはそれなりに練習もしている、実力もある、戦術もある。そしてなにより、後輩たちの出足を遅らせ、かく乱させた「戦略」がある。そもそもどんなに若くて元気でたくさん練習しているとはいえそこら辺の学生とは競技歴も人間としてのキャリアも違う。こちらはたかだか十数年(後輩たちは年下なので数年)程度の競技歴、何十年とやっている人たちとは比較にならない。相手はお年寄りでも老人でもなく、一人の選手でありしかも、いまだに現役でプレーを続行しているベテランの選手なのである。手を抜いても油断してもいい理由は一つたりともあり得ない。それに気づけなかったという点で、勝利はかなり遥か彼方に霞んでいたような気もする。

戦力と戦術、そして戦略はそれぞれ試合や戦、ゲームの中でその結果を決定づける要素であるが、実はこれらは思った以上に混同されたり軽視されがちであるなぁと感じている。それぞれはもちろん違うものだし、どれが大事だとかではなく全てをおしなべて考えていくことが勝利することに直結する。
ここにぼくなりの解釈を置いておく。


1.戦力
相手を打ち負かす力である。プレイヤー本体の体力やフィジカルでもある。合戦では兵力であるし、卓球でいえば技術の精度やバリエーション。キャラクター性でもある。相手との勝負にあたって自分が持っているもの、持っていけるもの。



2.戦術
相手に対して戦力をいかに使うか、whatではなくhowの力。ルールに則り、スコアを稼ぎ勝利する方法を構築し、実行に移す力、またはそのレパートリー。戦力自体が拮抗していた場合、戦術が求められるし、多勢に対して無勢であっても戦術次第では勢いをひっくり返すこともできる。卓球でいえばラリーを構築するコース取り、サービス変化を繰り出す順番。キャラクターに対してストーリー性といえる。相手と向かい合って勝負するときに考えるもの、生み出せるもの。




これら戦力と戦術はよく認識されているが、第3の要素である戦略に関して最近思うことが多いので考えてみる。ちょっと難しくてぼろぼろになりそうだけどがんばる。

3.戦略
読んで字のごとく「戦を略する力」。戦術や戦力のメタ的な存在で、勝利に一番近いところにある要素なのかも。どのように戦局を進めていくかという全体的な方針。よく「戦略は将軍の術、戦術は兵隊の術」ともいわれる。今回の例でいえば勝利という目的に対し戦術や戦力といった手段をいかに運用して目的達成するかという全体の見通しや、自分自身に対する戦術ともいえる(のか?)。上記した二つと違い、勝負の外にある力。キャラクター、ストーリーに対して企画力、PR力に位置する。


略という字にはもう一つ側面がある。
人は、煩雑で複雑で面倒で難しいことを略する。ポケットモンスターポケモンだし、超very very good!はチョベリグ(最近聞かないけど)だし、3. 1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 ...はπである。どうでもいいけど円周率はググってコピペしましたごめんなさい。
そして勝利のために戦うことも略することができる。戦場にあるひとつひとつの戦いの効率化。それをやるのが戦略なのではなかろうか。
略するということは単にものごとを削除していく減退的な活動ではなく、いらないもの不要な点を消していくことで目的達成のプロセスをシンプルに、明確にすることでもある。特に相手がいるのであれば、効率が悪いと遅れをとりかねない。これは致命的だし、逆に効率化を図ってリードできればこれほど有利なことはない。
先日試合の会場で出会ったおじいちゃんたちは、この戦略を巧みに利用し、こちらのスタートダッシュを致命的に遅らせた。実際その裏に意図があったのかなかったのかは知らない。それでも実際に後輩たちは油断し、負けた。もしかしたら本当にいい人たちで、心の底から試合を楽しもうと声をかけた、または本当に大学生を怖いと思っていたのかも知れない。だがしかしそうだったとしたら、この戦略感を肌感覚で持っていたということにもなる。事実、彼らはそれで勝ち、試合を存分に楽しんだのだから。試合の様子を見ていてぼくとしては後者とはあまり思えなかった。とてもフレンドリーで、そして紳士的な態度でありながらも試合に勝つことに対する執着はぼくたちと同様に感じられた。また試合中の技術の幅、ミスの少なさ、スムーズな戦術転換は娯楽の域を超え、完全に競技用としか思えなかったからだ。彼らは、勝ちにきていた。


とにかくそうして彼らはぼくらの手から勝っていれば入賞してもらえたはずの賞金をかっさらい、意気揚々と帰路についた。
試合に出た後輩たちは不完全燃焼であったに違いない。試合を見ていながらも、本 来 で あ れ ば 勝てた試合だったかなぁ...とぼくも思ってしまった。しかし完全にやられた。能ある鷹は爪を隠すともいうべきか、勝負強いということはこういうことなんだなぁと痛感した。みていながらも非常に悔やまれたし、不甲斐なかった、残念だった。


しかし、厳しいかもしれないけど「勝てた試合」なんてものは甘えと幻想であり、どこにも存在しない。そこにあるのは「勝った試合」か、「勝てなかった試合」のどちらかのみ。「勝てた試合」なんていうのは、所詮勝てなかった人間の遠吠えにしかならない。もちろんこんなことを偉そうにいえるほどぼくも強くなく、そういったミスや言い訳はなるべくしないようにしていながらも時々してしまう。でも言い訳は自分を成長させないし、何よりダサい。

勝負にこだわる、でもこだわりすぎない。っていうのは非常に大切な視点。これは手段の目的化だとか、短絡思考とか表面しかみていない狭くて浅い視野に自分を落とし込まないようにしながら、それでも真剣に自分を高めていく。これが現実の戦場で一番強いひとのとる方法だし、それこそが戦略なのかもしれない。

さらっと人事を、むしろ万事を尽くしてただ天命を待てる人間になりたい。そういう人はすごい。さらっと勝つための努力をこれでもかとし、準備を怠らず、ミスもなく、相手の弱点を突き自分の得意な土俵で簡単に試合を進めて勝利をさらっていく。すごい。かっこいい。憧れてしまう。強い人からは学ぶことが多い。そんな人からの敗北であればさらに学ぶことは多い。

おじいちゃんたちが笑顔で試合前に言ってきた、「いい試合をしよう」という言葉、そして試合後に言ってきた「いい試合だったよ」という言葉が今頃になって突き刺さる。
いい試合のために何をしてきただろうか、今日から何ができるだろうか。